「風ノ旅ビト」のアートは「想像が膨らまない」から美しい。
「風ノ旅ビト」のアートはなぜこんなにも美しいのでしょうか。
私は、アートの言葉ではうまく語れませんが、その理由をゲームデザインの観点から説明できると思っています。
それは「想像を膨らませていない」から。
え、逆じゃないの?世界について想像がふくらむデザインが良いんじゃないの?と思うかもしれませんが、その理由を解説します。
アニメーションなどと違って、ゲームでは「プレイヤーが何をすべきか、何ができるかを想像させないといけない」という話です。
ちなみに、なぜ2018年の今更になって風ノ旅ビトを語るのかというと、CEDEC2018のセッションについての以下のツイートが発端です。
「風ノ旅ビト」はシステムからアートが導かれた
とてもアーティスティックで雰囲気を感じるだけでも楽しいゲームなので、アートからコンセプトを固めたように感じるかもしれませんが、実は逆ですよ、という話があります。
この講演において、thatgamecompanyのクリエイティブディレクターであるジェノヴァ・チェン氏が「風ノ旅ビト」を「“ふたりの人間のあいだに新しい感情を呼び起こす”ゲームの開発」と語っています。
この画像を見て、「風ノ旅ビト」の初期プロトタイプの画像だと、わかる方はそうそういないのではないでしょうか。
”▲初期のプロトタイプ。協力して岩を乗り越えたり、ロープを使って助け合うようになっていた”(ファミ通様の記事より引用)
こうした実験を経て、彼は既存のオンラインゲームのように人々が罵り合わないための、システムのあり方について考察を深めていきます。こちらも引用になりますが、
"ジェノヴァ氏は、こうしたオンラインプレイでのプレイヤー間の衝突がなぜ起こるのか、心理学者に会って相談してみたという。すると、新しい世界に降り立ったプレイヤーは、赤ん坊のような状態と言われたとのこと。赤ん坊は、ひたすらフィードバックだけを求める。つまり、未知なる世界での“叫び”や“血”、“死”といったものが、リワード(報酬)に見えてしまうわけだ。ここから、ユーザーのインプットとアウトプットをコントロールすればいいのではと気づき、“お互いに報酬を与え合う”というフィードバックを導入。相手のことが好きになる仕掛けができたそうだ。"
こうして、風ノ旅ビトに実装された「共鳴」のようなシステムが発明されていきます。
そこから、キャラクターをどのようなデザインにすべきか、試行錯誤が繰り返されていますが、別のインタビューによると、6回もデザインが変わったそうです。
↑の記事は英語ですが、重要な所を引用すると、
なぜ顔もなく、声も出さないあのキャラクターになったんですか?:
「キャラクターは人間の真の性質を表現するため、操っているプレイヤーがどんな人かを想像させるような個性を一切省き、年齢も性別も人種も何もわからない、地球上の誰とも取れないようなデザインを目指した。」
4番目のデザインについて:
「腕がないデザインにした。腕があると押したり引いたりのアニメーションも必要なので実装が大変だし、プレイヤーが武器を取ったりお互いを攻撃したくなってしまうので。」
5番目のデザインについて:
「足を棒のようなデザインにした。足首があると砂の傾斜で傾けるのが大変だったので、実装できないから足首をカットした。」
どうやら「砂漠でプレイする」というデザインは最初から決まっていたようですが、その上でキャラを動かすために、プレイヤーに与える動機、そして実装コストといった両面からデザインが決められていった(しわ寄せを吸収していった)というプロセスが伺えます。
実際、アートブックなどに載っている途中のキャラクターデザインには、腕も足首も存在していることがわかります。
風ノ旅ビトのプロトタイプのキャラデザ。↓のサイトより引用
システムを描くための「想像を制限するデザイン」
よく、レトロゲームの魅力を語るときに使われる言説として
「想像を膨らませる余地のあるドット絵が良い」という表現がされますが、自分はこの表現には少し語弊があると考えています。
想像が膨らむのは、「ゲームから離れたとき」であって、ゲームプレイ中は、「ジャンプしてここ飛び越えられないのかな」とか、「この敵の武器奪って戦えないのかな」とか、実装されていない事を「想像する余地がない」ように、機能だけを表現している事のほうが重要です。
このようにセルベースのドット絵の場合、通路を1マス分のキャラが塞いでいた時に、「ちょっとズラしたら通れないかな?」といった想像は制限されています。(ドラゴンクエスト/エニックス/1986年)
グラフィックの表現力が増した現在のゲームでは、「この先行けるんじゃない?」とか、「このNPC攻撃できないの?」といった行動をプレイ中に想像する余地が生まれてしまっているために、それが実装されていなかった場合に「なんだ、できないじゃん」という期待との乖離が発生してしまいます。
風ノ旅ビトでは、そういった
「できないこと」を「想像させない」ために、
腕をなくし、
足首をなくし、
壁をなくし、
目的地に光を灯し、
徹底的に「これをやってほしい」という所に自然と注意が行くように、丁寧にデザインされています。
もちろん、AAAタイトルの目指す先としては、「全部リアルに描いて、全部できるように実装する」というアプローチもあります。
が、何でもかんでも実装できない小さいチームによるゲームは、こういった「想像の制限」をうまく使うことで、美しいゲームデザインが可能となるのではないでしょうか。
"The Art of Game Design"
「プレイヤーの行動を自然と導くデザイン」はまさに、ゲームでしか味わえない、ゲームにこそ必要な特殊な技術だと思います。自分はこれこそが、
「ゲームデザインはアートである」と言える大きな理由の一つだと感じています。
「アート」という言葉は定義が難しいですが、風ノ旅ビトの「アート」を語る上では主に「美術」の意味で使っていました。ここでの「ゲームデザインのアート」は「芸術分野の一つ」とか、もっと根本的に「技術」という意味でのアートだと捉えていただければと思います。
こういった、ゲームデザインのアートを感じる瞬間がとても好きなので、今後もマガジンとして、思いつくままにまとめていければと思いましたので、応援よろしくお願いいたします。
著者のTwitterはこちら