ほんみちの概要

  創 立   大正2年旧7月15日
  創始者   大西愛治郎・甘露台様(天啓者・甘露台人の理)
  現後継者  大西泰彦・甘露台様(愛治郎の孫・愛治郎の生れ変り)※令和2年1月14日死去
  信仰の対象 世界万物人間の創造主・親神様(月日様)十柱の神様、天啓者・甘露台様、おぢば
  教 典   『みかぐらうた』『お筆先』『お指図』『どろうみこうき』『教義一斑』等
  本部所在地  大阪府高石市羽衣3―1-72
  信者数    30万人 ※実数 1万数千人
  施 設   竹之内廟所 泉南支部 関東・中部・明石・西部・ロサンゼルス各出張所 宇陀支部 京都山林 花瀬山修道場 
  名称の変遷 天理研究会(大正14年) 天理本道(昭和11年) ほんみち(昭和25年)

【概要】
 「ほんみち」は、天理教の教師(山口教会長・岡山教務支庁主事)であった大西愛治郎が、自らが中山みきを後継する天啓者であると主張し、天理教から分派・独立した教団である。

【入信 群馬単独布教】
 大西愛治郎は、明治14(1881)年に奈良県宇陀郡宇多村(現宇陀市)の農家、岸岡家に生まれた。明治32年19歳のときに母親の難病を縁として天理教に入信した。
 母親はまもなく死去したが、これを岸岡家の悪因縁によるものと考えた愛治郎は、生涯を天理教の布教にささげることを誓い、九度の別席を受講「お授け」を受けるとすぐに上京、群馬県安中町(現安中市)に移り、単独布教に励んだ。明治36年頃には信者が増え、教会の寄進を申し出る者も現れた。

【結婚 山口県での道中】
 明治37年愛治郎24歳の時、奈良県添上郡東市村(現奈良市)の大西家に婿入りし、所属していた奈良教会春野会長の依頼によって、山口県内の三布教所を整理・復興するために、同県花岡町(現下松市)に夫婦で転居した。同39年には「貧におちきれ」の教えの下、全財産を無記名で献納した。同40年、26歳の愛治郎は山口教会の教会長となり、同43年には岡山教務支庁の主事に任命された。
 その後、難病人助けに心が行き詰まり、大正2年3月から山口教会の離れにこもり胸調べを行った。

【甘露台人の理】
 同年旧7月14日の夕刻、愛治郎は衣服にむさ苦しさを感じ、妻と2人の子供共に衣服を脱ぎ、愛治郎が次男を、妻が長女を背負って部屋の中を早足で回り続けた。15日の午前零時すぎ、自然に足が止まった時、愛治郎は忽然として「甘露台とは場所だけではなく人間の甘露台もあり、教祖中山みきに続く天啓者(甘露台人の理)は自分である」と確信したという。ほんみちでは、この大正2年旧7月15日をほんみち発祥記念祭と定めている。

【天理研究会】
 同年12月、愛治郎は自分こそみきに続く新しい天啓者であると記した手紙(これをまとめたものを『甘露台古記』という)を天理教本部と直轄教会長全員に郵送した。翌3年1月に親教会にあたる奈良分教会から異端邪説を唱える者として、教会長職の辞任勧告を受けた。奈良へ移転した愛治郎は、その後、約10年間にわたり毎月1回、書簡を郵送し続けた。
 大正9年6月、愛治郎の手紙を読んだ1人の天理教布教師が訪ねてきたことがきっかけとなり、次第に天啓者不在の天理教教団に疑問をもつ者や教団の世俗化を憂える天理教の信者が愛治郎のもとに集まりだした。
 大正13年2月、天理教本部から教師の資格を剥奪された愛治郎は、翌14年に奈良県当麻町竹之内に天理研究所を建設し、「天理研究会」と称した。信者数約4千人。
 同15年12月宇治山田市(現伊勢市)に妻とともに身を隠した。

【不敬事件 (昭和3年13年事件)】
 昭和2年、長男(若宮と称す)の病気を神の啓示ととらえ、同会は小冊子『研究資料』を発行し、各界の有力者に配布した。これは天理教の在り方を批判するとともに、天皇は現人神にあらず、大戦と国家滅亡の危機を予言し、さらには甘露台を中心とする甘露台世界実現を主張するというものであった。この配布によって、翌3年、愛治郎らは不敬罪で起訴されたが、大審院は愛治郎らを精神異常者とみなし事件を不問に付した。(被検挙者数約500名)

 昭和11年4月、愛治郎は教団名を「天理本道(ほんみち)」と改称した。
 同年末に妻トヲが病で倒れ、これを神からの自分に対するさらなる布教の要請とうけとめた愛治郎は、同13年『研究資料』と同趣旨の『書信』を総計900万部を印刷し、国内に配布した。このため愛治郎らは不敬罪・治安維持法違反で起訴された(被検挙者数約1000名)
 翌年、内務省によって教団は解散処分となった。同17年9月の第一審では、愛治郎が無期懲役、幹部らも刑に処せられたが大審院へ控訴中に終戦となり、連合国軍総司令部の命令により政治犯とみなされて全員が釈放された。

【再建】
 昭和21年2月に大阪府高石市羽衣に本部を置き、宗教法人令による宗教法人「天理本道」を設立し、3月、愛治郎は長女愛子を教主に、次男正憲を管主に任命して教団の再建を図った。同25年8月、教団名を「ほんみち」と改称し、同28年に信徒の労働奉仕(ひのきしん)によって大阪府高石市に本部神拝殿が完成した。(近代木造建築として日本最大級、1100畳敷の神拝殿)
 昭和33年11月29日、愛治郎は78歳で死去した。その後、次女大西玉を後継者として擁立した「みろく会事情」が勃発し、その派は昭和37年1月に「ほんぶしん」として分派・独立した。
 教団は「愛治郎が、生前〝死んでも大西家に甘露台として再生する〟と公言していた」とし、同37年5月に「管主の子息が愛治郎の再生である」と発表した。この子息とは、後に甘露台となる7男泰彦である。
 同41年、教主愛子の死去に伴い管主正憲の長男元興が教主の後継者に、5年後、管主正憲の死去により次男正隆が管主の後継者となって、泰彦が成人して甘露台に就任するまでの教団運営にあたった。

【二十年祭、三十年祭普請】
 同52年、愛治郎の死去20年にあたる年で「御前生甘露台様御二十年祭」と称し、教団はひのきしんにより泉南市に「信達神拝殿」を建設した。
 同54年1月、泰彦が甘露台に就任し、その任命によって正式に元興が二代教主に、正隆が二代管主にそれぞれ就いた。
 同62年、「御前生甘露台様御三十年祭」と称し、泉南市に「ほんみち神拝殿」(3500畳敷の神拝殿)がひのきしんによって建設された。

【現在】
平成27年11月1日二代管主 死去 令和2年1月14日甘露台 死去 令和4年8月31日二代教主 死去 現在三社様と称する3つの役職が空席となっている。

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