自由の女神(Statue of Liberty)物語
ニューヨークの自由の女神像。誰もが知っている”超”有名彫刻ですが、その由来、製作にまつわる困難など、背景には興味深いエピソードがたくさんあります。時系列で辿ってみますので、どうぞお付き合いください。
(↑写真:ニューヨーク・リバティ島に立つ自由の女神像)
(この文章は、2010年2月にアメーバブログに全7回で連載した記事に少し加筆したものです。私の工房で、自由の女神像の縮小オリジナル原型の製作→型取りして石膏像として製品化した時の発売記念として書きました。
目次:
①なんのために女神像
②難航した資金集め
③エッフェルの協力
④原寸大模型の制作まで
⑤木型の製作と、銅板の打ち出し
⑥パリでの組み立て
⑦ニューヨークでの組み立て、完成
①なんのために女神像?
そもそも、誰が何のためにこんな巨大像を建造したのか? アメリカの自由の象徴だから。もちろんその通りですが、アメリカ人が作ったものではありません。自由の女神像はフランス人彫刻家が作者で、フランスからアメリカへ贈られたプレゼントだったのです。
1865年、歴史家で熱烈なアメリカの賛美者であったフランス人、エドワール・ド・ラブライエは、自分が主催した晩餐会でアメリカとの友好を象徴する記念碑を建造することを提案しました。
アメリカが独立戦争でイギリスと戦っていた時、フランスは援軍を送りその独立を手助けした経緯があります。アメリカの独立100周年のタイミングに、フランス革命によってもたらされた”自由”と、独立戦争によってもたらされた”自由”、その双方を象徴するような記念碑をアメリカに贈り、友好の印にしようと考えたのです。
その晩餐会に同席していたのが、フランス人彫刻家、フレデリック・オーギュスト・バルトルディ(1834-1904)。このとき彼はまだ30歳前後でしたが、すでに成功した彫刻家で、自分のスタジオを持つまでになっていました。バルトルディはかつて訪れたエジプトの巨大遺跡に感銘を受け、より大きな彫刻の制作を夢見ていたので、ラブライエの提案に強く心を動かされます。
1870年、バルトルディは女神像の最初のデザイン模型を作り、「世界を照らす自由(Liverty Enlightning World)」と名づけました。1876年のアメリカ独立百周年記念の年が近づいていたため、女神像の建造にはまたとないチャンスだと考えたのです。
1871年、バルトルディは渡米し、たくさんの名士達と会い女神像の建造の意義と協力を強く訴えました。
1874年、ラブライエは女神像の建造資金を集めるために”仏米協会”を組織し、アメリカ側では台座の建造を負担することが決まりました。
(↑写真:アトリエに置かれた女神像の最終?模型)
1875年、バルトルディは自由の女神像の最終模型を完成させました。これは高さ120㎝の粘土模型で、アイディアとしてはほぼ完成形のものです。右手にたいまつを持ち、左手にはアメリカ独立記念日の日付が刻まれた石版。足元には専制のかせがあり、それを断ち切って一歩前へ踏み出したポーズをとっています。
粘土模型の段階で1875年になってしまっていたので、当然1876年の米国独立百周年記念祭には建造は間に合いませんでした。
(↑写真:フランス・パリの自由の女神像 セーヌ川のグルネル橋のたもとにあります。高さは11.5メートル。ニューヨークの像の四分の一のサイズで、アメリカ側からの返礼として贈られました。左手の石版にはフランス革命の日付の1789年7月14日が刻まれています。)
②難航した資金集め
1875年、パリで大々的な晩餐会がひらかれ、自由の女神像の建造資金集めが行われ、4万ドルの資金が仏米協会に寄付されました。
バルトルディは早速建造に取り掛かり、1876年のアメリカ独立100年祭までに”たいまつと右手”の部分が出来上がりました。この右手は、フィラデルフィアで開かれたアメリカ独立100年祭博覧会に展示され、希望者は内部のはしごを上って炎の部分のバルコニーに出ることができました。
ラブライエはさらに資金を集めるために、国中をかけまわり全国的な募金キャンペーンが行われました。バルトルディも自己資金2万ドルを提供したり、ミニチュアの自由の女神像を2000体制作して販売し、資金の一部としました。
こういった努力の結果、1880年7月までに像全体の建造をまかなえる40万ドルという資金が確保されたのです。
アメリカ側の台座の建設にも巨額の費用が必要でした。1881年に行われた最初のキャンペーンで当面必要な資金が確保できたため、ニューヨークのベドローズ島で台座の建造が開始されました。
資金調達のためにいろいろな試みが行われたのですが、1884年には資金が底をつき台座の建造は中止に追い込まれてしまいました。
ここで登場したのが、あの”賞”で名高いジョゼフ・ピューリッツァー。ニューヨーク・ワールドという新聞の編集発行人だったピューリッツァーは、自分の新聞で5ヶ月間に渡って女神像の建造資金の募金キャンペーンを繰り広げました。その結果、アメリカ全土の市民から募金が寄せられ台座の建造資金が確保されたのです。
(↑写真:アメリカ・ラスベガスの自由の女神)
③エッフェルの協力
自由の女神像の建造は大変な計画で、かつてこれほど巨大な像がつくられたことはありませんでした。
ちなみに
1504年 ミケランジェロのダビデ像 高4.3m
1252年 鎌倉の大仏 高12.8m
B.C.2550年 スフィンクス 高20.1m
1667 聖ボロメオ像 高23.2m
自由の女神像は高さ46mですからいかに大きい建造物か分かります。
石で作ったり、鋳造して全体を作り出すことが困難であると判断したバルトルディは、何百枚もの薄い銅板をパズルのように組み合わせて骨組みに貼り付けてゆく手法を考えます。ただ、厚みが2.4㎜の薄い銅板を使っても、全体の重みが100トンを越えてしまうため、それをどうやって支えるかが大きな問題でした。
そこで当時最先端の建築家だったアレクサンドル・ギュスターブ・エッフェルに骨組みの設計を依頼したのです。エッフェル塔の完成は1889年ですので、自由の女神の設計の方が先だったようです。
当時エッフェルは鉄橋の建築で世界的に有名な人物でした。その知識を生かして、巨大な女神像が風や急激な温度変化にも耐えられるような画期的な鉄の骨組みを考案しました。
強力な鉄骨を中心にすえて、そこに薄い銅板を”吊るしてゆく”ような手法で建造する計画です。それぞれの銅板は”ズボンのベルト通し”のような形で骨組みに吊るされており、熱による膨張、収縮が起こった時に自由に”ゆがむ”ことが出来る構造になっています。
自由の女神は、エッフェルのすぐれた建築技術なくしては完成しなかったでしょう。またエッフェルにとっても、女神像建造の経験は後のエッフェル塔建造に大いに役立ったのではないでしょうか。
(↑写真:東京・お台場の自由の女神 「日本におけるフランス年」事業の一環として1998年4月から一年間、パリの女神像を移動して展示したもの。
これが好評を博したため、その後、フランス政府からレプリカの制作が認められフランスのクーベルタン鋳造所にて複製されたブロンズ製のレプリカが2000年に設置されました。)
④原寸大模型の制作まで
バルトルディは1870年に自由の女神像の設計を開始しました。最初はたくさんのデッサンを描き、次に小さな粘土模型を次々と作りアイディアを固めてゆきました。1875年にはデザイン的にほぼ完成された1.2mの粘土模型が制作されました。
2番目の模型は2.9m、3番目は11.5m模型となり、これは完成品の四分の一の大きさでした。少しずつデザインに手を入れ、より見栄えのするように調整してゆきました。制作は、当時のパリで大規模な美術品制作に定評のあったガジェ・ゴーディエ社で行われました。
縮小像として制作されたのはこの四分の一サイズまでで、つぎは実寸大の模型の制作となります。実寸大の制作は、四分の一サイズの模型を忠実に拡大して写し取る作業になります。
実寸大の女神像はあまりにも大きいので、だいたい10個くらいに分割されて部品として製作されました。
まず四分の一の模型を10個に分割します。それぞれのパーツを垂直、水平方向に正確に測り、データ化してゆきます。コンピューターとセンサーの無い時代なので、いろいろな場所を基準点として設定し、それぞれを数値化しました。像全体ではおよそ1500箇所の基準点が設定され、正確を期すためそれぞれが6回ずつ計測されたそうです。
計測されたデータを基に、実寸大模型の骨組みを木の梁でつくり、そこに基準点となる長い釘を打ち付けてゆきます。さらにその上から、釘の頭が隠れるように漆喰を塗り上げてゆきます。(漆喰とは、石灰に麻の繊維を加え、海草などから抽出した接着剤、水などを加えて練り上げたもの)
職人達は、さらに縮小模型の姿に近づくように漆喰を調整してゆきました。
漆喰の実寸大模型が完成すると、今度はそれを銅板にコピーしなければなりません。
(↑写真:ニューヨークの自由の女神 頭部 2001年の同時多発テロ以降は安全のため頭部の展望台は閉鎖されていましたが、2009年に再開されました。現在は1日240人までに制限されているようです。※2010年頃の情報)
⑤木型の製作と、銅板の打ち出し
漆喰で完成された各部分の実寸大模型を、こんどは最終的な素材である銅板にコピーしなければ像は完成しません。普通に考えると、その漆喰に薄い銅板をあててコンコンと叩いていけばうまく行きそうに思いますね。でも実際にはそう簡単にはいきません。
銅板をあてて叩くには漆喰は柔らかすぎるのです。そこで漆喰の模型の各部分を細かく木型に写し取る作業が必要になります。木型がどういうものかというのは、文章だと伝わりにくいんですけど、カラーボックスをイメージしてください(部屋の整理に使う一番簡単な棚ですよね)。カラーボックスのような形に木を格子状に組んだものを大量に作るのです。
その木型が、原型の漆喰の表面にぴったりと密着するように木を削ってゆきます。
(↑写真:漆喰原形から写し取った木型に合わせて銅板を打ち出す作業)
あまり起伏が複雑でない場所では木枠は大まかでよいですが、布のひだのような複雑な場所では、正確な複製をするために木枠のサイズをより小さくしてたくさん作る必要があります。最終的には、組み立てると46mにもなる巨大な女神像の10個のパーツが、木型でびっしりと覆われることになるのです。これは恐ろしく根気の要る作業です。
木型が完成した部分は像から取り外して、木型に沿って銅板を打ち出してゆきます(打ち出す時には像の内側から外にむかってカンカン打っていることになります。分かりますでしょうか?ちょっとややこしいですね)。
こうやって約350枚の銅板が制作されました。総重量は100トンにもなります。それでもバルトルディは、この当時の彫像に使用されていた通常の銅板(約6㎜~10㎜)よりもかなり薄いもの(約2㎜)を使って出来るだけ軽く作りました。これは女神像全体を支える難しさと、アメリカへの輸送を考慮してのことです。
この作業については、本当はイラストがあると分かりやすいんですが・・。文章だけだと伝わりにくいですね。それにしてもややこしい作業だと思いませんか?ものづくりというのはこういうものなのです。ブロンズ像も石膏像も、現代の技術を用いても、いまだに手間のかかる大変な作業なのです。
(↑写真:ニューヨークの自由の女神内部の鉄骨の構造 私はアメリカを訪れたことが無いのですが、自由の女神の内部はこのようになっています※下から見上げた写真。中央に見えているのが頭の部分まで行く螺旋階段。台座の部分はエレベーターで上れるそうです。)
⑥パリでの組み立て
1881年の10月、パリのガジェ・ゴーティエ社では、屋外に鉄骨を組み女神像を組み立てる作業が始まりました。
組み立てといっても、前回までに書いたとおり細かい部分に分割して銅板をたたき出しているので、実際に銅板同士をつないでゆくとつじつまの合わない場所が当然出てきます。そのつど銅板をたたき直して調整して組み立ててゆきました。
1882年の夏に腰の部分まで。1883年の末までに全身がほぼ組みあがりました。組み立てと銅板の制作などはオーバーラップして作業がすすみましたが、それでも像が完成形に辿り着くまでに2年以上かかったことになります。バルトルディが最初の粘土模型を制作してから、すでに13年の歳月が経過していました。
(↑イラスト:パリのガジェ・ゴーディエ社での仮組み立ての様子。パリの街並みを背景に、あの女神像が出現した瞬間があったなんて驚きです!)
パリの街中にこんな感じでそびえ立っていたんですね。出来たばかりですから、銅板の色も現在の緑がかったものではなく、新品の10円玉のような色だったんでしょう。この段階はあくまで仮止めで組み立てられていたので、アメリカではさらに30万本のビスが打ち込まれる予定でした。
1884年の7月4日の独立記念日に、自由の女神はフランス側からアメリカ側に引き渡されました。
一方、アメリカのベドローズ島では台座の建設作業が続いていましたが、予定が大幅に遅れていました。そのため、女神像が実際に解体されてアメリカに発送されたのは1885年の5月になってからでした。
⑦ニューヨークでの組み立て、完成
1885年の5月に、分解された自由の女神像を積み込んだフランス軍の軍艦イゼール号は仏・ルーアンの港を出発しました。翌月にはニューヨークに到着しましたが、やはりまだ台座が完成していなかったため、組み立てる作業は1886年の4月まで待たなければなりませんでした。
自由の女神の組み立ては1886年の10月に完成し、除幕式が行われました。
作者のバルトルディ、クリーブランド大統領、ピュリッツァー、仏米協会の会員達などが出席し、10万人以上の見物客達の前で披露されました。
(↑自由の女神の披露の様子 1886年 Edward Moran作)
1916年までは、見物客は右手のたいまつの所にあるバルコニーまで上ることができましたが、腕の強度が不安視されるようになり上ることができなくなりました。
さてさて、長々と書いてきた自由の女神像のお話はこれでおしまいです。ちょっと長すぎて退屈だったでしょうか?モノづくりの背景には様々な苦労があるものです。特に彫刻というのは、普通の工業製品とは違った形態の複雑さがあり、美しい姿が生み出されるまでには想像以上の困難がともなうものなのです。
ここまで書いてきた内容は、メアリー・シャピロ(文)、ハック・スカリー(絵)、近藤純夫(訳) 「自由の女神物語」 (偕成社 1987刊)を参考にしました。この本は図書館の児童向けの棚で見つけたもので、図解が多くたいへん分かりやすい書物です。私の稚拙な文章で”よく分からないな~”と感じた方は、ぜひこの本を手に取ってご覧になってみてください。
(※文中の自由の女神像に関する写真は、全てWikimedia commonsより)
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追記: この「自由の女神物語」の絵を担当している”ハック・スカリー”さん。”スカリー”?”ハック”?・・・・・・・思い当たる方はいませんか?
子供向けの英語学習の絵本”The Best Word Book Ever”の著者のリチャード・スキャリーの息子さんなのです。リチャード・スキャリーの著書もロングセラーの素晴らしい絵本ですね。