パリ・オペラ座の日々1993~1994:おわりに
おわりに
2020年1月から連載してきたパリ滞在日記は、これでおしまいです。
まずはほとんど全ての記事にファボをくださったパスカさん、Motocoさん、しばしば訪れてくださったみかんせいじんさん、サロさん&会長さん、他にも少数ではありますけどご覧頂いた全ての皆様に感謝を。長々とお付き合い頂きありがとうございました。
いやぁ〜長かった!(笑)
そして反響が少なかった!(笑)
じつは、この旅行記の前に1年間くらい連載した「石膏像図鑑@note」では、「note編集部のお気に入り」というピックアップに2回選ばれて、そこでアクセスとフォロワー数が急増する現象がありました。大きなリアクションがあると、投稿を続けていく励みにもなりますから、今回のパリ日記もどこかのタイミングできっと…と期待していました。
でも結果的にそういったことはまったく起こらず、 淡々とした日記がひたすら淡々と続くだけ…みたいになってしまいました😢
2ヶ月くらい進んだ頃に、あーこれはやはり方法が間違っていたか?と反省する気持ちもあったんですけど、かと言って他に有効な手立ても思いつかなくて、ひたすらゴリゴリ突き進む日々でした。
現在進行形で2020年のリアルタイムのパリ日記だったら、もう少しアクセス数は増えていたかもしれませんね。でも僕のは27年前の個人的な記録の掘り起こしだし、観光ガイド的な学びがある訳でもないですから、ひっそり静かに…というのは当然だったのかもしれません。
パリ日記を書くぞ!と決心したのは、2019年のお正月でした。もう2年も前!!(笑) それまで熱心に取り組んできた石膏像に関する情報発信がひと区切り付き、ずっと心の奥に引っかかっていたパリ時代のことを整理してみようとふと思い立ったんです。
大昔の思い出を延々と書き連ねるなんて、まるで定年を迎えたオジサンが誰にも読まれない「自分史」を出版しちゃうみたいで痛すぎるか…とか思いながら、当時の日記とか資料をパラパラ眺めてみると、これが意外に面白い。ちゃんとした学校に通わず、働きもせず、完全プータローで過ごしていただけあって、毎日が観光、観劇、イベントの連続なんです。フランスで暮らしていた時は、後にこうやって文章を書いて振り返ることなんて一切想像していなかったと思うんですけど、日々の行動記録、パンフレット、チケット類、レシートなどダンボール2箱にギッチリ詰まってました。捨てるに忍びないというのと、帰国後の生活があまりに地味で、自由気ままな海外生活のことは忘れちゃった方がいいかなという気持ちでずっと封印してました。
1990年代までは、ほとんどの人にとって旅の記憶というのは、その人個人の胸の内にだけしまい込まれているものでした。家族や知人と会話して、写真を見ながら少しだけ旅の体験を共有するくらい。でも時は流れて、誰もが情報発信することが出来る時代になりました。誰にも読まれなくたって、発信するだけなら自由なんだから(おまけに無料だし!)どんどん書いてみようと。
日々の仕事も忙しかったので、最初は日曜日に資料の整理をしたり、どう書こうか?と思案したり。それから様々な資料と写真アルバムをスマホでどんどん撮影してパソコンに取り込んで行きました。
2019年のゴールデンウィークにまずは導入部をと、最初に書き上げた文章がこちら。
なぜ27年も前の旅行記を書くのか?その旅へと誘ったものはなんだったのか?
唐突に日記形式で始めても意味不明なので、当時の社会状況とか自分たちの生活の様子を綴って「僕らが旅に出る理由」を書いています。1993年というと、バブルの終焉が誰の目にも明らかになって、でもまだ経済の高揚感は残っていて…という時期でした。
数十年経過した今でも、1980年代後半に大学生だった自分たちの世代はバブルの申し子だとつくづく思います。セゾングループが意味不明の店舗を有楽町マリオンに構えたり、観客ガラガラの現代美術展示を池袋の本店の美術館で展開したりしてました。日本中のみんなが地面から少し浮き上がってフワフワ漂うような、そんな時代でした。
資産家でもないし、たいした蓄えもない20代夫婦が1年間海外で遊んで暮らす、などという発想は、平成・令和という厳しい時期を経験した今では「勘違い」としか言いようがないです(笑) でもその勘違いを笑いながら許容する空気が、1993年にはまだ残っていました。
じっくり書いていたら「序章」がずいぶん長くなってしまいましたが、noteとして一番読み応えがあるのはこの部分だったかもしれません。
2020年初頭に序章の公開をスタートして、パリに到着した3月末からは、27年前の日記と現在の日付がシンクロするように進めようと考えました。様々な体験、イベントの記録がありましたから、それらを日々綴っていくには、かなりの量の下書きが必要なことは明白でした。
ゴールデンウィークからスタートした執筆は、2019年の夏から秋にかけて延々と続き、少ない休日のほとんどの時間をこの作業に費やしました。ちょうど娘の大学受験の時期で、家族としてのレジャーがほとんど無かったので、この執筆に集中できたのは好都合でした。
記事のアップ開始を目論んでいた2020年2月には、すでに100本以上の下書きnoteがストックされていました。これだけ準備しておけば、あとは休日ごとに時間を見つけて書き進めていけば、ラストまで上手くたどり着けるだろうと(後々、この見通しが甘かったことを思い知るわけですが…笑)。
というわけで、3月から記事を毎日のようにアップし始めたんですけど、下書きが完了していたのは1993年7月分までで、そこからも延々と記事を書き続けなければなりません。そうこうしているうちにコロナが深刻化して、たいへんな社会状況になってしまいました。
春から夏にかけては外食、旅行、さらには外出自体が憚られるようなムードでしたから、必要不可欠な仕事場との往復以外はなるべく家に籠ってすごすようになりました。華やかなオリンピックイヤーとなるはずの2020年が、そんなことになるとは想像すらしないで書き始めた過去の旅行記ですけど、この閉塞的な状況はnote記事の執筆には追い風になりました。他に楽しめることも思いつかないので、近所の散歩以外はどんどんこの旅行記を書き進めることが出来ました。
緊急事態宣言下の4月、5月の頃は、パリ滞在中の夏の旅行のことをたくさん書いていました。
たくさん記事を書いていく中でつくづく感じたのは、現在のインターネットのあまりにも大きな恩恵です。フランスへ旅行していた1993年の頃は、インターネットは皆無の時代です。コミュニケーションは電話か手紙ですし、情報を得る手段は書籍、新聞、口コミ…くらいしか無いんです。これって2000年以降に生まれた人にとっては想像も出来ない世界なんじゃないでしょうか。今考えると、当時はとにかく何も見えていません(笑) というか自分の目に見えているほんの小さな世界だけが認識の範囲であって、それ以外の広大な領域のほとんどが目に入っていないんです。
1993年にパリで観たバレエの舞台、テレビ番組、訪れた観光地のこと、美術館の来歴、展示されている美術作品について…枚挙にいとまがないですが、何もかも断片的な部分しか理解していなかったことが、今回この連載を書いていく中で浮彫になりました。
ひとつの体験について書くだけでも、Wikipediaなどあちこちのウェブページを覗き、あらためて「そういうことだったのか!」と理解することがたくさんありました。
例えば、ベルギー発の世界的なダンスカンパニー「Rosas」については、舞台を直接目にしているのに、ケースマイケルの経歴、革新的なダンスの意味についてほとんで理解していませんでした。今回調べてみて、フェーズ・シフトとか、スティーヴ・ライヒとの関係性をあらためて知りました。
アルヴィン・ニコライについても同じです。1950年代の米国でやはり舞踏に大きな進化をもたらした振付家、音楽家ですが、彼のことは当時はほとんど知りませんでした。
映画監督のエミール・クストリッツァについても、日記の記述から初めて「アリゾナ・ドリーム」と同じ監督だと知りました。パリのテレビでなんとなく眺めていて妙に印象が強かった映画です。
そんな感じで、1993年の思い出の掘り起こしをやっているんだけど、意外にも2020年の自分にとってずいぶん実りのある作業になりました。訪れた場所や、体験した舞台など、何もかも勉強して納得しようなんていうつもりはないんですけど、ぼんやりとした記憶で終わらせるよりは、ちゃんとした情報を加えてあげて、その体験を立体的に、そしてよりクリアーに理解できたのは嬉しいことでした。
(ディアギレフが率いたバレエ・リュスのレパートリー「ペトルーシュカ」)
オペラ座のバレエについては、本編でもたくさん書いてきましたから、あらためて語ろうとは思いません。パトリック・デュポンが芸術監督兼ダンサーとしてバレエ団を率いた時代を体験できたことは何よりの幸せでした。
ローラン・プティ、ジェローム・ロビンスはまだ健在で、舞台挨拶にも出てきてくれました。マッツ・エック、フォーサイス、ノイマイヤー、バランシンの振り、バレエ・リュスの宝石のようなたくさんの演目を観れたことは一生の宝物だと思います。
夏に南仏ニームの古代闘技場(ローマ時代のもの、もちろん屋根の無い屋外)で観た、パリ・オペラ座バレエ団のマッツ・エック版「ジゼル」の素晴らしさ!
最終的にこのパリ滞在日記では、216本のnote記事を書きました。全て「パリ・オペラ座の日々1993~1994」というマガジン内に格納されています。しばらくはこのまま放置して、ある程度時間が経過したら有料マガジンに切り替えるかもしれません。マガジンがフォローされることは全く期待していないのですが、自分たちの写真を大量に使っていますのでアクセスに少し制約があった方が良いかなと思っています。
単純に資料と原稿用紙を前にして、こういった長大な文章を書くことはおそらく不可能だったでしょう。これはnoteというシンプルなブログプラットフォームがあればこそ出来たことだと思います。素晴らしい場を提供してくださっているnoteさんにはいつも感謝しています。
さ!これでおしまい。ようやくこのパリ時代の呪縛から解放される時がきました。若かりし日に最大限のリスクを取って一歩踏み出した自分たちに拍手を👏
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