ほぼ脳死の子への尊厳死は国内でも可能(下)

尊厳死を実現して今思うこと

残された者の苦しさ

 かくして、尊厳死は実現できた。我が子はもう苦しまなくて済む。しかし、残った家族のその後は、決して楽ではない。なぜなら、尊厳死実現という総力戦を7年半続けたので、30代という働き盛りの職歴を焼失して戦後の焼け野原に立っている。我が子誕生時に上司から「君は大きなハンデを背負った」と言われたし、その後も同期入社員と比較して昇進速度はもう2周回遅れだ。戦時下にあれだけ公私とも頑張ったのに…、「のに病」になる。その後授かった二人目の子がこけて切り傷で泣く。医療的ケア児にはこの様な事が日常的に起きていたと思うと、今でもいつも心が締め付けられる。中巻の通り行えば、7年半もかからなかったのだ。なぜ、あれ程医療者の独善の為に長期間苦しまなければなかったのか。今でも思う。

療育生活の苦しさ

 7年半の療育期間中、患者家族は24時間毎に自宅と病院で過ごした。この病院で24時間生活が大変なのである。子供の世話は、マッサージや体位変換に、オムツ交換や食事とすぐ終わる内容だ。音楽を流したり本を読み聞かせたり話しかけたりするが、反応がなく段々悲しくなり止めてしまった。すると、残りはずっとパイプ椅子に座るだけなのだ。お尻が痛くなるが、他にする事も行く所も無い。話し相手もいない。
 大部屋だから、入れ替わり色々な患者が入院してくる。小さい子の為、慣れない病院で泣く事が多い。親も必死になだめるがなかなか治まらない。中にはマナーの悪い親子もいて、泣きわめく子供に荒く躾する親、そして看護師にわがままで暴言を吐く子でうるさい。加えて室温調整も難しく、暑い寒い時が有る。簡易ベッドは寝返りを打つと、バリバリ音がして起きてしまう事が有る。加えて、深夜のマッサージと体位変換もあり、十分に眠れないまま次の日中が始まる。もう行きたくなくなるが、行かないとまた親の務めを果たしていないと言われかねない。長期間、毎日医療者の脅迫や終わりの見えない療育生活を続けた。以前より感情が乏しく涙も流れなくなった。軽い鬱だとみられる。

繰り返される医療者の独善

 勤め先で配置換えとなり、そこでの自己紹介で我が子の経緯を伝える機会があった。すると、その聴衆に私と似た境遇にいる同僚がいたのだ。彼の話を聞くと、まさか我が子と同じ病院でそれは起きていた。心の中に絶望と怒りの炎が一気に燃え広がった。同じ過ちが繰り返されない様に、自分が何か役立てないかと。上巻の通り、日本は必死に出生率を上げようとしている。しかし、増え続ける医療的ケア児を十分に周知せず、生まれた医療的ケア児の療育は若い夫婦に負わせている。明日を担う若い夫婦とその子供が、長く苦しむことがあってはならない。医療的ケア児が認知され、その中で尊厳死を希望する人が、少しでも苦しい想いをせず実現できる世になるよう願ってその実現方法を記してきた。
 これは急ぎ尊厳死を実現させたい方に書いたハウツー。ここでは書き切れない、7年半という長い時間の詳細の要約だ。思い出すだけで苦しい内容を再び掘り起こしてしたためた。興味を持たれた方は、こちらも読んでみてほしい。


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