02-窓のない部屋、そして再会
「で…繰り返しになるけれどね、あなた、そのヒトと寝たの?? 寝てないの??」
さっきからこの質問をなんどもなんども訊かれている。普段なら怒り出す。普段の短気な私だったら。
しかし、ここで怒るわけにはいかない。
「…寝ていません。キスすらさせていません…」
私の声が、ぼよんぼよんと、天井近くでうつろさを伴って響いているような感じがしていた。人生で初めて入った取調室は、テレビドラマのものとは違い、世間でささやかれているうわさどおり、ちいさくて窓がなかった。
目の前の机には私が「仕事」として「そのヒト」から請けた作業の資料。内容を世に出したなら私はお縄になるところだった、という事実を告げられ、たしなめられてから、身体中の血が凍ったままとけようとしない。
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いろんなひとの手を過度にすがって、つながりをなくした私の日々は、退院してからは灰色に塗りつぶされたカンバスのように彩りがなかった。
友達がいないわけではなかったけれど、広く浅くよりも、輪としては小さいけれど濃いつきあいがしっくりときた私にとって、友人とみなしていたひとたちがほぼ全員目の前から消えてしまったことはこれ以上なく衝撃だった。
ひとりで時間を過ごそうにも、夏と秋を闘病でまるまる潰したせいで、身体からは体力というものが全く抜け落ちてしまっていた。徒歩15分の図書館ですら帰り途はタクシーに頼らざるを得ない。
そんななか、ほとんど唯一、私の目の前に残ってくれた友人がいた。彼女は若い頃に身体を病み、それでも結婚相手を見つけて結婚し、この頃は旦那さんの仕事で近いところに越してきていた。
彼女は言った。
「相手を見つけて結婚したらいいよ!!」
耳を疑った。
できるわけないよ!!
と即答すると、実は彼女は婚活サイトで旦那さんと出会って結婚したという。私はまた耳を疑う。
正直、婚活サイトには偏見があった。
サクラ・詐欺・なれ合い・あらかじめの妥協…そういった不安を私は口にした。
彼女は、そこらへんはしょうがない、けれど、安定した将来を得るには、トレードオフ! そりゃあ、確かに心身はすり減るよ。あなたの性格では居づらい場所ということもわかる。けれど、身体がこうなってしまったからはしょうがない。必要悪だ。と私に告げた。
背中を押された私の行動は早かった。
かつてSNSでアイコンに使っていた、ちょっとどころかかなりお澄まししている画像を用意し、私のありのままを綴ったプロフィールを完成させるまで、1日も掛からなかった。
ウソだけは、絶対に書きたくなかったのだ。
そのような意固地な態度は世間に容易に悪用されるとも知らなかった。
そして3か月ほどして、私は冒頭の取調室にいた。婚活サイトで知り合った「そのヒト」はどうしようもないごろつきだった。
「わかったわかった、それだけ寝てない、と言うからには、寝てないのね。わかった〜」
限りなく生返事にちかい了解が刑事のひとから発される。ふたたび怒りが湧いてきたが、飲み込む。
私の怒りを見透かして、なおかつたしなめるように、さらに刑事のひとがいう。
「…けどさあ、あなた、さっき言ったように、悪事の片棒を担ごうとしていたのよ?
まかり間違ったらあなたも加害者よ?
あなたの行動で悲しむ人間がいるかもしれなかったわけ。わかる??」
これは刑事事件扱いになる、と調書をとられ、尋問は終わった。
その日のうちに携帯電話とメールはすべて解約し、婚活サイトは脱会した。
ベッドの中で死にかけた魚のようにうつむく日々がふたたびやってきた。
…そんなかんじで身辺が一時期あさっての方向に慌ただしかったので、「彼」、つまり旦那といつつながりを取り戻したか、すっからかんと私の脳内からは記憶が抜けている。
気がついたら彼は私のタイムラインの隅っこにいて、辛辣なことばと独特のユーモアで私の相手をするようになっていた。
ああ、なんだか、このひととやりとりをしていると、こころがくすぐったいや。
文面に顕れる単語ひとつひとつは厳しくグサリと刺さるけれど、いちいち核心を突いていた。
クリシェやペーソス抜きの、本音の言葉で語るひとだ、という印象。
もうひとつ彼について興味深いことがあった。
尋常ではないフットワークの軽さだ。週末になると地方に脚を運んでいる。
いつ彼は休んでいるんだろう。どこにこのバイタリティを蓄えているんだろう。
18年前の、微かに記憶の中に残る彼と、その剛胆さはいまいち一致しなかった。もっと正確に私の抱いた印象を言おう。
彼は強くなった。あの儚げで自信のなさそうなころから、彼は強くなったのだ。
そう考えると私は少し哀しくなった。いまの私ときたら、すっかり弱くなって、生きている価値があるのかどうかわかりはしない。
私は18年のあいだ、いったいなにをしてきたんだろうか?
そんな中、彼がとあるイベントに出展するという情報を得た。時期は真夏の真っ盛りのイベントホール。
私はその日は朝から用事があることになっていたので、いったんは諦めることにした。またどこかで会えるだろう。そんなふうに軽く考えていた。
しかしイベント前日。
私の用事が急遽、キャンセルになった。
どうしようか。
顔を見に行くだけでも、なにかいいことはあるかもしれないな。
向こうは私の顔を覚えているかどうか、分からないけれど。
夏のイベントホールは蒸し暑いどころではないことはわかっていた。
けれど、何かが私のあとをそっと押していたのは、いま思うと間違いではなかった。
麦わら帽子を被ってアイスノンを抱えてアイシングをたくさん持って、私は彼に会いに向かった。
続きは次の機会に。