二躯の瞑想法
著作.岩満陽平
瞑想中に優越な思考が現れると、それに騙されて、瞑想をやめてしまうことがある。40分、50分あたりは気をつけなければならない。
瞑想をする前に、メモに、今日は絶対あの優越な思考に騙されないぞと、妙な気持になっても、それに騙されないぞとかたく決めなければならない。
瞑想中に見える神秘や悟りみたいなものは、全く持ってなんの意味もない
むしろ、そんなところで立ち止まってたら、さらなる静けさ(幻想的な静けさではない)にたどりつくことはできない。
静けさは、幻想の中にはない、むしろ幻想が取り払われたところにある。
もっと言えば、瞑想をしたからとそれが悟りに直結することはない。
じゃあ逆に瞑想をしたから悟りました、となれば、具体的な説明をしてもらわないとイケない。瞑想の何が悟りを齎しましたか?結局そんなものはありえない話だ。
悟りは、むしろ呼吸法や、食後の精神が安定してる時が、もっとも悟りに近い状態だ。そして、悟りだからと0になることはない。人間は、その0を達成しようとしてあがけばあがくほど悟りから遠ざかったり近づいたりして、結局、悟りなどというのもを実現することは不可能なのである。
悟り、という言葉を聴いて、俺悟ったわ!となれば喜びが生まれて悟りから遠ざかる。
悟りという言葉を聴いて、そんなものはない、と言えば悲観が生まれる。
悟りとは、などと静かに語りはじめれば、世の中の虚無を感じて、悲しみが生まれる。
ようは、そんなどうしようもない悟りなど求めず、ただ思考に騙されず、感情に流されず、かっこたる自分を持つ為に瞑想をするのだ。
悟りなどない、あったとしても到達することなどありえない。
人間は一日一日が輪廻であり、そこから逃れる術などないのだ。
それにいちはやく気づいたときに、悟りも輪廻も、たわいのない自分のことなのだと理解できる。