無性愛者というバグ/いつか終わるはずだった孤独
【はじめに】
「人間は進化の過程で色んな多様性を持つようになったけど、たまに居る”子供を作りたくない”って人、あれは生物学的に完全にバグだよねw」なんて言って妻と笑ってたら、それが自分自身だったという話。
確かな生きづらさを感じながら、それでも真実に気づかないまま、20年以上生きてきた。
結婚して、夫にまでなってしまったのに、その後に自分が無性愛者だと気づき、今までの自分の行動には、どこにも愛情が無かった事に気づく。
小学三年生時点での将来の夢「普通の家族になって、ぼくみたいにさみしい思いをしない子供を育てて、幸せにしてあげたい」。
寂しいのは家のせいじゃなく、無性愛者故の、男とも女とも馴染めない性質のせいだった。
今回は、そんな話をしたいと思います。
【無性愛者はロボットである】
この見出しの通り、無性愛者はロボットのような気分で人間達の事を眺め、過ごしています。
ロボットじゃなくても、犬、猫、ハムスター、鳥、とにかく人間じゃなければなんでも。
人間に対し、同じ生き物だという実感が湧きません。
厳密には全ての動物に対し、”自分とは違う何か“という印象を抱きながら、生活をしています。
人間の場合、他人は他人として割り切りますが、無性愛者の場合、そもそも違う動物であり、どんな形だろうと理解し合えない存在として認識しています。
同じ言葉を話すことはできるものの、根本的な考え方は、何もわかりません。
言葉での理解はできますが、心からの理解ができないんです。
なぜなら“愛”を持たないから。
犬が心を持っていても、猫が心を持っていても、ロボットが心を持っていても、それはそれぞれ、犬の心、猫の心、ロボットの心です。
無性愛者も心を持っていますが、それはあくまで無性愛者の心。
人の手をとって、温もりを分かち合おうと、その温かさの意味はまるで違います。
例えば、異性に手をとられた時、意中の相手ならときめきを、そうでなければ不快感を感じるかと思います。
無性愛者は違います。
ただ温かいんです、誰のものだろうと。
しかし、そこに異性のつもりで情欲が混ぜられているのを感じると、途端に”自分に似た違う生き物が、違う生き物である自分に対して発情している”と、不気味さや滑稽さを感じ、不快になります。
この孤独がわかるでしょうか?
犬が発情して自分の足にしがみつき、一所懸命に腰を振る姿を想像してください。
無性愛者にとって、自分の肉体の性別に対しての異性となる存在が向けてくる情欲は、全てそれくらい滑稽で、意味を持ちません。
犬くらい体格差があるならまだしも、近い体格、近い造形で、それでも違う生き物相手がそんなことをしてこれば、もはや身の危険さえ感じてしまう訳です。
ただ、それで割り切ることが出来ればよかったのですが、僕は幼少期の性的虐待の名残りで、”人体は効率よく自分を射精させ、一時的な快感をもたらしてくれる“と知ってしまっているので、やや複雑でした。
【異種との性交、肉の交わり】
僕は異性にも同性にも性的な興奮が出来ません。
ただ、性欲自体はあり、射精後に自己嫌悪と虚しさに襲われると知りながら、溜まったものは出したくなります。
10代中頃まで、そういった時にはよく女性との性交に及んでいました。
ただその時点で既に、照明は無し、前戯も無し、騎乗位で済ませてもらう、時間がかかると確実に中折れする…という、およそ性交のマナーとしては最悪な要素をフルコンプしていたんです。
でも当たり前ですよ、そもそも肉体に備わった機能のひとつとして性欲が存在するだけで、それを人間で処理したいという感情はありませんから。
小学生の時、こればかりは本当の、本当に、誰にも言ってきませんでしたが、僕は隠されたものに興奮する性質がありました。
知的好奇心を性欲と重ね合わせることで、無理矢理興奮を促し、自力での射精に至っていた訳です。
それはWikipediaを長時間読み込むことでも可能でしたが、とりわけ人体の損傷による内側の露出に惹かれ、そういった画像をネットで見つけては、事を終える度に自己嫌悪に陥っていました。
初めて見るタイプの美術作品などでも興奮し、中学の頃に貰った美術の教科書は、数日の間、恋人のように扱っていた記憶があります。
ちなみに今はそこまで酷くありませんので、悪しからず。
今のパートナーとの同棲開始後も、すぐに「もし僕とSEXができなくなったら、別れる?」と聞き、返事をもらえなかった為、バイアグラを使うことでなんとか対処していました。
バイアグラは勃起をさせてはくれますが、性的興奮が足りない以上、なかなか射精には至らず、お互いに不完全燃焼な事が多かったように記憶しています。
無性愛者、とりわけ愛情も情欲も持たない者にとって、異性という概念は存在しません。
この世に存在する全ての命は、自分か、自分以外の異種生物か。
焼肉を食べながら、ふと、自分の舌に意識を集中させます。
タンを口に入れて、自分のタンとの違いを確かめるのですが、よくわからないんです。
小学生の時は、肉を食べられない期間がありました。
幸いレトルト生活で栄養不足気味だったのと、怪我をする度に血を舐める癖があったからか、いつの間にか肉を食べることへの抵抗も無くなっていました。
ただ、今でもたまに気持ち悪い時はあり、そういう時は宇宙の向こうのことでも考えて、黙々と咀嚼を終えています。
ちなみに血を舐める癖というのは、精神的に病んでいたとか、厨二病をこじらせていたとか、そういった理由ではありません。
出血によって、血液という自分の一部が、体外に漏れて失われてしまう。
それを防ぎたいという恐怖心から来る行動であり、いちばん古い記憶でも、7歳の時には備わっていました。生粋のナルシストですね。
ここまででお察しの方はいらっしゃるかと思いますが、もちろんカニバリズムにも関心があります。
ただ、中学生の時、現代人はあまり食用に向かないという論文に出会ってしまった為、これを読んでいるような文化的な人間を食べようとは思いません。
食べるならもっと原子的な人類がいいので、あなたは対象外です、ごめんなさい。
とはいえ! とんでもなく裕福な生活をしている人間なら、その限りではない…という論文も、後になって見かけたんですよ!
ただそんな人、僕が食べられてしまう機会はあっても、食べさせてもらえる機会はなかなか無いでしょうね。
権力の差には勝てないので、普通に諦めてます。
【無性愛者から見る男性、女性】
無性愛者として自覚のないまま生きることも、小さな頃は、まだそこまで辛くはありませんでした。
小学三年生になった辺りから、明確に同級生達の中でも、男性サイドと女性サイドに派閥が割れ始め、それが最初の生きづらさの始まりです。
その時、無性愛者の僕は、どちらにもつくことが出来ず、それでも身体が男性である為、男性サイドにつくことを強要されました。
男子は外でサッカー、女子は教室でお絵描きや読書。
僕はどちらかと言えば、女子と同じことがしたいタイプでした。
ただ、どんな時でも自分がハブかれるかもしれないという恐怖を感じていた為、大人しく男子に付き合います。
この時点での男子と女子というのは、正直ごっこ遊びのようなものでした。
時間が経つと女子もサッカーやドッジボールに混ざっていましたし、男子も読書やお絵描きを始めていました。
短い期間とはいえ、あの苦痛な時間はなんだったんだろうと、不思議に思っています。
明確に性別の差が出始めたのは、4年生の保健体育の授業の後からでしょう。
僕は自分に男性器だけしかなく、膣が備わっていないことを不思議に思っていましたが、それは自分が男だからだと、明確に理解できました。
胸の内がザワザワし、強いストレスで意識が宙を浮くような感覚に襲われたのを覚えています。
まず一時間の授業の後、続けて二時間目は、男子と女子を分けて行われることになりました。
その後から、女子は男子に妙によそよそしくなり、男子はそんな女子に疎外感を感じさせられます。
ここで、男子と女子の派閥は完全に分断され、もはやそれがごっこ遊びではなくなったことを、無性愛者なりにしっかりと感じ取っていました。
今思うと、生理の授業は、普通に男子にも聞かせるべきものだったと思うんですけどね。
男子は簡単な避妊の話の後、身体的な変化を迎える女子に優しくすることを諭され、すぐに自由時間になってましたよ。
くだらない。
男女差というやつは、教育によって染み込まされ、社会によって成立させられるものなんだと感じています。
本質的にはどちらも同じで、性別によって傾向の違いくらいはあるかもしれませんが、それもそもそも無意識の内に押しつけられて生じるものだと思うんですよ。
家畜でもあるまいし、性別で人間の種別を分けるなんて、僕はあまりいい気がしませんね。
男らしさ、女らしさというのは、無性愛者にとっては飾りです。
それに翻弄されてわざと下品になる男性達や、そんな男性達を「嫌よねー」なんて笑う女性達が、僕は本当に苦手でした。
そのように振る舞う全ての人達が、本当に、自分とは違う動物達に見えているんです。
でも…そもそも違ったのは、そんな僕自身。
僕の人生というこの狭くて広い世界でも、僕一人だけが、違う動物だったんです。
【無性愛者という演者】
自分で言うのもなんですが、僕はまだ社会人として生活していた頃、それなりに人に好かれていました。
男性の上司には女房役として良くも悪くも可愛がられ、一緒に過ごす機会の多い女性には、頼れる異性として、最終的に好意を寄せられる事が少なくなかったです。
無性愛者にとっては多くのことが他人事であり、客観的に物事を観察できてしまいます。
ただ、その気持ちをそのまま態度に出してしまうと、待っているのは自分が原因の不協和音です。
故に、その観察力を駆使して、男性が言われて嬉しいこと、女性が言われて嬉しいこと、どんな振る舞いが男性に好まれるか、どんな振る舞いが女性に好まれるか、徹底的に理解に努め、演じる訳です。
普通の仕事をしているのに、気分は水商売でした。
男性、女性という区別以外に、年齢、傾向、気にするべきものはどれだけでもあります。
自分がどれにも該当しないので、どれでも演じられるわけです。
この苦痛がわかるでしょうか?
誰かに感謝されたり、信頼される度に、内心では「それは本当の僕ではありません」と感じる訳です。
僕はあくまで、状況を見て色々な事を学習し、それを振る舞いに反映させているだけ。
いわば多くの人が、僕を通し、自分の求める理想の他人を見ている訳です。
この能力は主に接客業で役に立ちましたが、営業職では数字が出せるまでに時間がかかる為、半年で居心地の悪さを感じて退職に至りました。
退職前、年末の大型商戦において、他の誰も売れなかった期間限定の高額商品(自社の年間パス的なもの)を3個ほど売ったので、一人の上司は偶然だと言い放ち、もう一人には引き止められましたけどね。
ちょっとだけ良い気分でしたが、トータルで見ると会社にとってはやはり業績不足だったと思うので、ここ以外で自慢したことはないです。
という訳で、話を元に戻しますね。
僕はどんな職場でも馴染めますが、中にはそんな僕を気に入らないという人間もいます。
そんな人間に限って、根気強く接し続けていると、最後には一番の味方になってくれたりするんです。
同時に依存もされるので、その頃にはその職場を辞めようと考え始める訳ですが。
誰にでもなれるというのは、誰にもなれないという意味です。
演者は演者、芸人や歌手ではありません。
演じる能力だけで社会生活をしてきた僕は、いまや疲れきってしまい、誰とも関わらない生活を送っています。
それもSNS上では終わりを告げましたが…。
正直、自分が無性愛者だと知れて、演じなくてはならないというプレッシャーは無くなりました。
世の中には無性愛者というカテゴリーが存在し、僕はそこに該当していて、別に世界に一人きりの種類の動物じゃなかった訳です。
ただ、それが僕の中でわかったところで、世間にその考えが浸透しているかと言うと、答えはノー。
結局なんの問題も改善していないので、まだ自分の振る舞い方に困っています。
世間にとって、無性愛者である僕は、どう振る舞うのが正解ですか?
僕ほどパターナルを活用して生きてきた人間は居ないと思います。
同時に、パターナルに苦しんできた一人でもあるのですが。
【あとがき】
以上、“無性愛者というバグ/いつか終わるはずだった孤独”でした。
僕は無性愛者ですが、そこに加えて虐待サバイバーであること、中でもネグレクトの影響が色濃く残っていることもあり、家族愛すら知りません。
子供の頃から、ずっとずっと、人間に似たロボットや怪物が、大切な人間と仲良く暮らして、ハッピーエンドになる。
そんな話ばかりを思い描いてきたんです。
これ、幼稚園児の頃の粘土遊びを含めると、かれこれ20年近くやっていますね。
でも今のところ、理想のエンディングに辿り着けた事は一度も無いです。
粘土遊びの時なんて、粘土が僕で、指人形なんかが友達なんですけど、抱きしめても飲み込んじゃうんですよね。
それからモグモグして吐き出して、「あーん! 食べちゃったよー!」なんて泣く。
くっだらねえ。
それは無性愛者である自分を慰めたくて、無意識で自分に重ねて思い描いていた空想です。
自分が誰かとハッピーに暮らすなんて、経験した事も、想像した事すらも無いのですから、そんなものは誰にも描けません。
自分に虐待をした父親、自分に性的虐待をした姉、自分を殴る妻とも長年暮らし続けられたのは、どれも彼らが自分と同じ動物に見えていなかったからでしょうね。
家に住む猫に噛まれて、あなたはその猫と縁を切りますか?
例え感染症で入院になったとしても、退院後は気をつけて接するようにするだけで、別に保健所送りになんてしないでしょう。
僕にとって、家族にされた事もそんなもんだから、長年耐え続けられたんです。
気づいた時は皮肉なもんだと笑えました。
顔で笑って心で泣くと、片目だけ涙をこぼすので、いつも不思議に思っています。
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