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表現の統制とは?
今、現在の時点でウェブニュースで取り沙汰されている中に「赤いきつね」がある。
赤いきつねのCMが、あたかも性的であるという苦情、批判を取り上げたものであるが、おそらく批判は一部の人達だけではないかと推測する。
教育現場、会社組織などではコンプライアンス、法令順守、人に優しく、敬語の徹底などが叫ばれているが、他にもジェンダー、多様性などもクローズアップされてきている。
今回の「赤いきつねが性的表現に見える」問題だが、あまりに記事が炎上と騒ぎ立てるものだから、どれほどのものか私自身も視聴してみた。
個人的な意見だが
「美味しそうな赤いきつねを、女性が美味しそうに食べているCM」
それだけだった。
どこをどう見れば性的な印象を受けるのか考えた。
アニメデザインのキャラクター?
女性の仕草や食べ方?
声?外見?
どこをとってもそういう印象は受けなかった。
あえて言うなら、女性の外見が綺麗とかなのだろうか・・・
だがこれは数多あるCMだったり、表現のひとつにすぎない。
変わった見方をするならフェティシズムか?
フェティシズムとは、男女や物体、自然などに関係なく、全体、部分的を含めて性的、愛情、こだわりを持った追求や執着をする嗜好を指す。マニアとも言い換えれるだろう。
これが、そういう性的嗜好を持った人間によりクローズアップされたかもしれないという事だろうか?
しかし、そんなものは世の中どこにでもある。
世界中のどんなもの、人などの対象であっても、その存在を(または)見る側が、見ようによってフェティシズムや性的表現に映るかは千差万別であり、人間の数だけ違いがある。
さて、赤いきつねだが、この性的に見える事により、不快だとのクレームで問題だという。
不快とはどれだけの人口が不愉快なのだろうか?
CM作成は、どれだけの人達を不快にしないように配慮するべきなのか?
そもそも、CMは不快にさせたらアウトなのだろうか?
そして、CMとは、人々を満足させなければいけないのだろうか?
昨今のニュース記事を読むと、「一部の不快に感じる人々」とある。
企業はCMを作る際に、一部の人間にも配慮しなければならないのか?
CMは、違法、犯罪を仕向けたり、公序良俗に反しなければ少なくとも日本では問題ない。
そして、赤いきつねの表現は、そのような違反をしている様にはどうしても思えない。
つまり、元々赤いきつねを食べる習慣が無く、根本的にアニメがかった表現方法が嫌いな人間が、今回赤いきつねのCMを見ることにより、自らの主義主張を赤いきつねを隠れ蓑にして攻撃し、批判しているようにしか見えないのだ。
そこに記事を書く筆者や記者の会社が
「民衆が批判している」
と言う見出しを作り
「国民が求めている」
という言葉を大義名分とし
そもそも少数派が騒いでいるだけの声を
「火をつけなくてもいいものを、あえて炎上させている」
のではないだろうか?
これは一部の悪徳週刊誌やマスコミのやり方に似ている。
普段から網をはり、何かいい炎上ネタは無いか目を光らせている中で、偶然に赤いきつねというターゲットが現れ、食いつき記事にしたのであろう。
「多様性」という言葉がある。
そして今回、赤いきつねのCMは、不快に思う人達の思いも尊重しろと言い張っているとの事。
しかし、本来CMは商売の売り上げの為に発表するものであり、ボランティアでは無い。
したがって、少数派の不快に思う人の事は本質的には(まったくとは言わないが)配慮する必要は無い。
週刊誌などは、少数でも不快に思い迷惑する人がいるなら記事に出すべきでは無いが、CMなどの広告は別だ。
週刊誌は公序良俗に反しているが、CMは公序良俗に反してはいない。
そもそも、反したものを大企業が堂々と発表はできないし、認められもしない。
多数派の賛同者の売り上げがなければ商売は成り立たないし、批判だらけなら赤字に陥る可能性があるからだ。
そして、「少数派の批判は、決してマイノリティーでは無い」
したがって、このケースは多様性に配慮する事には当てはまらないのだ。
そしてこれが肝心であるが、
「誰一人にも批判をされないCMを作る事は不可能である」
◯◯という芸能人を起用してCMを出す。
Aさんはその芸能人は好きでも、Bさんは大嫌い。だからBさんはクレームを言う。
果たして世の中はそのBさんの批判も受け入れなければならないのだろうか?
否、決してそんなはずはない。
どこの誰が、何を発表しようとも、必ず賞賛と批判は起こる。
だからといって、批判を恐れて何もしないというのは会社としても本末転倒だ。
これは個人の人間関係でも起こり得る。
何か意見を言えば、賛同もあるし否定もあるのは当然だ。
一人ひとりが違う主義、主張、思想を持っているからだ。
これはごく自然なことでもある。
少数派は多様性には含まれない。
むしろ、多様性が大事だとするならば、表現方法が違法でない限り、心を寛容にもち
「まあ、そのぐらいいいか」
という心持ちで認めてあげるのが多様性ではないだろうか。
そこまで世の中、表現の統制に目を光らせて監視し合う必要性は無い。
何かの事故、事件でもあるまいし、むしろ平和だと感じる。
最後になるが、ひと言付け加えさせていただく。
「赤いきつねも、緑のたぬきも美味しいよ!!」