アーノンクールのホワイト・タイ

 2007年6月9日、中部ドイツ・ライプツィヒは晴天。折からの猛暑で、石畳の道には蜃気楼が見える。旧市街の西側にはバッハゆかりのトーマス教会が建つ。この日、トーマスの聖歌隊席に陣取ったのは、ニコラウス・アーノンクールと彼の楽団コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンだ。7日から始まったバッハ音楽祭の3日目、彼らはここでバッハのカンタータを演奏する。普段なら夏でも、御堂の空気は冷んやりとしている。しかしこの年は、教会の中まで熱波が入り込んでいた。
 長堂のほぼ中央、説教壇に近い座席の周囲ではみな、プログラム冊子を団扇代わりにして少しでも涼を得ようとしている。しばらくすると、階上西側の聖歌隊席にアーノンクールが姿を現した。正礼装の燕尾服を着ている。桁外れの暑さの中、彼がホワイト・タイで身を固めたのには理由ある。

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