献血的愛
献血が趣味。
…なんていうと語弊があるが、可能な限り頻繁に献血センターに通っている。400mlの全血献血の場合、献血後12週間たてば次の献血ができる。特にめんどくさいという気分もなく、むしろ積極的に行きたいと思うし、12週間のインターバルという制限がなければもっと行く回数が増えるだろう。であれば、まあ趣味と言っても許されるのではなかろうか。
理由はいくつかある。セブンティーンアイスに目がないこと(献血をすれば無料で一個食べられる専用コインがもらえる。それは当日でも後日でも使える)。自販機の飲み物が飲み放題であること(カップベンダーではあるが)。お菓子も食べ放題であること。もちろん食べ放題、飲み放題であるからといって、ここぞとばかりに大量に飲み食いしてくるわけではない。そして、職員さんはおおむね丁寧で感じのいい対応をしてくれる。毎回もらえる粗品のほか、誕生月の記念品、◯回目の記念品などもたびたびもらえる。血を提供する代わりに、ゆったりしたカフェでVIP待遇を味わってくるような感覚である。
そして駐車場は平日で3時間無料。買い物をしなくても、周囲のお店をぶらぶら見て回るには十分な時間だ。特にジュンク堂で目的もなく本を物色するのが好き。
血液検査の結果を後日教えてくれるのもメリットの一つである。ネット上で過去の結果と比較参照することもできる。お手軽な健康診断として使える。
あとちょっとオカルトチックだが、時々血を抜くというのは健康に良い影響を与えるのではないかと勝手に思っている。体に致命症を与えない程度のダメージを与えることは、回復させようとかえって体にスイッチを入れる効果がある気がするからだ。昔、迷信ではあるけれども「瀉血(しゃけつ)」という体から血を抜く治療が大真面目に行われていた時代もあるし、「死なない程度の毒はなんでも体のためになる」という「ホルミシス」という考え方もある。
と、まあそんな感じで、自分にも十分にメリットがあるから献血に行くのも苦にならないわけであるが、それはまあ、理由の一部でしかない。やはり善意の行為をわざわざ自分の時間を割いて行うというのは気分のいいものだ。特にすべてを終えた後の気分の爽快さは格別である。筋トレや水風呂に例えるとわかりやすいが、本当の気持ちの良さは多少の苦痛や面倒臭さに耐えた後にやってくるものである。楽なことだけを延々と続けていたら、その楽さすらいつか楽に感じられなくなるのは自らの経験が教えるところだ。「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」とはよく言ったものである。
献血は純粋な贈与であり、しかも対象が無差別であるというのもまた良い。自分の提供した血液が誰に輸血されるかはわからない。どんなに相手がいけ好かない奴であろうと、主義主張が正反対の人間であろうと関係ない。命の危機に瀕している人であれば、誰であろうと血は提供されるのだ。これがもし、提供する相手を顔を見て選べるのだったらどうなるだろうか?「ちょっと待って!あいつにはやらないで!」なんてことにもなりかねない。でも、相手を知ることができないおかげで、誰彼かまわず無差別の善意が提供できる。それこそ、本来あるべき姿の善意ではないだろうか。だからこそ、提供する側の私も気持ちが良いのだ。
一度輸血体験者の言葉を赤十字のウェブサイトで読んでみたことがある。血が体に入ってくるとなんだか体がポカポカしてきて、自然と血液提供者への感謝の気持ちが湧いてきたそうだ。輸血すると体がポカポカするなんていうのは、大量に血液を失って死に瀕した経験のある人にしか想像のつかないことだ。献血というものの存在意義など、ふだんなかなか「身をもって」理解できるものではない。「売血ビジネス」などといって赤十字を揶揄する人もいるくらいである(陰謀脳もほどほどにしてほしいものだ)。善意には想像力が不可欠なのだ。そして、その想像力を働かせるために、必ずしも同じ種類の辛い経験が必要だとは私は思わない。たとえば死に瀕する大怪我をしなくたって、それとは別の辛い経験を応用することで、あるいは人の話を聞き、本で知識を得たりすることで、他者の辛さを自分のことのように感じることは十分に可能だと思う。
近内悠太著のベストセラー『世界は贈与でできている』の中で、若者の献血離れについて触れていた。実は若者の間では今ボランティアブームで、ゴミを拾ったりお年寄りの相手をしたりすることに関してはむしろ積極的に活動する若者が多いそうだ。にも関わらずの献血離れ。曰く、献血は「コスパが悪い」のだそうである。つまり、他のボランティアでは相手からの感謝や喜びがダイレクトに感じられるが、献血ではそれが感じられない。費用対効果で考えると、効果が目に見えて感じられない。だから「コスパが悪い」のだと。しかし、それはすでに贈与ではなく「贈与に見せかけた交換」であると著者は言う。それはそうだ。感謝という見返りをあらかじめ期待しているのは贈与とは言えない。
一足飛びに結論を述べる。
献血とは、その結果を自分の目で確かめることのできない「コスパの悪い」善行である。誰かに自分の血液が輸血されているところが見られるわけでもないし、財布を拾って届けた時のように相手からお礼状が届くわけでもない。なんなら保存の期限切れで廃棄されている可能性だってなきにしもあらずである(赤十字の内部事情は全く知らないので単なる想像だが)。にもかかわらず、その善意は確実に世界に良い影響を与えているし、必要でさえある。そう言った善意は「微力であるが、無力ではない」と近内氏も書いていた。これって、選挙での投票行為にも言えることではないだろうか。私の一票は微力ではあるが、無力ではない。しかし、微力を無力と勘違いして、その一票を捨てて本当に無力にしてしまう人のいかに多いことか。
…と、気づけばうっかり真面目なことを書いてしまった。「意味のある」ことはあんまり書かないようにと気をつけているのに。
結論。私が献血に行くのは、セブンティーンアイスが食べたいからです。笑
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