アラフィフがフィリピンで教育事業を始める!
というタイトルでnoteを始めて見ようと思います。
私既に48歳。正直何かを始めるのに遅すぎる事は無い!という言葉を聞くも実際に何かをしようとするには正直もう少し早くやっとけばよかったという事実を毎日受け入れて進んでいる年齢。
まず、私が住んでいるのはフィリピン、マカティという場所。
むちゃ都会。最初に来たのは2014年。正直当時はあまりに都会でびっくりした。でも、その外側にはスラムがあり、そして当時の自分ではスラムとそこそこ一般的な世帯の住宅の区別がつかなかった。つまりちょっと外へ出るとマジ怖いという印象が強かったのを今でも覚えている。
ではなんでこの48歳がフィリピンに来たのかを書いておきたいと思う。
私は某パワービルダーの会社でIT部門の担当をしていた。元々アメリカに留学経験があり、帰国後に某アメリカ通信会社のインターネットサービス会社に派遣社員で入り、正社員まで上り、その後、このパワービルダーの会社の役員の方と元々知り合いで、誘われるがままに情報システム部門を担当していた。
既に中国上海には支店があり、運営もしているが、2013年頃からチャイナ・リスクが話題になり、チャイナ+1という事になった。
社長はあまり乗り気ではなかったが、色々あって、ベトナムへ調査を開始、JobFair(会社説明会)もホーチミン工科大学で開催するなどして、ほぼハノイで決まりだったが・・・。
最後念の為フィリピンも見ておこうという事になり、フィリピンへ。
実は、フィリピンには少し思い出があった。
近所のおじいさん(工場経営で技術屋)さんが日本の奥さん捨ててフィリピンにハマり、捨てられて帰国してきた。(町内で噂、当時私は小学生だったが強烈にフィリピンこえぇという思い出。
ISPで仕事してた時、米海兵隊の隊員と仕事で話をしてた時、退役したらClarkに行くんだぜ!いいだろ!みたいな会話があり、当時どこだそれと調べた事を思い出した。
息子の保育園の同級生がフィリピン人ハーフで、体型が息子を瓜二つ。なんか親近感があった。
とまぁ、こんな感じでフィリピンについては正直全く知識も無く。出張に参加したところ。
まず、町並みがアメリカに似ていた。特に標識、道の名前(スペイン語表記)
英語は本当によく通じる。(ベトナムでは苦労した)
若い人が圧倒的に多い。
物価もそこまで高いと感じなかった。(フィリピン料理は当時駄目でした。出張者全員駄目だった)
で、人材募集、選定、生活のしやすさを考えて、フィリピンに決定!
ここがフィリピンでビジネスを始める第一歩?だった。