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へぇそうなんだ2

最近
「自分の意見を否定されて感情的になってしまう。」という相談を良く受けるようになった気がします。

その度に「へぇそうなんだ」でしょ。と思うのですが、もう少し詳しく書いてみよう思って書き直しておきます。

「自分の意見を否定されて感情的になってしまう。」

に隠された、心の働きには2つの罠があります。



1、自分の意見=アイデンティティ化



会社の中や様々な場面で起きる「否定されて感情的に」ですが、今のタイミングだと、ワクチンの賛否でいたるところに起きているようなので、ワクチンの賛否で考えてみます。


ワクチン賛成でも、ワクチン反対でも一度その論を張ると意見にアイデンティティが重なりはじめてしまいます。
つまり、自分が持っている意見を否定されると自分そのものが否定されたような気持ちになってしまうのです。

結果として自分を守るために、自分の意見をより強化したくなります。
そして、その意見を強化するための情報にばかり触れるようになりアイデンティティ化も強化されていきます。

会社の中でも、「戦略が足りない」「ウェルビーイングが」と語りはじめるとアイデンティティを重ねはじめてしまう人がいます。

ワクチン賛否も戦略もウェルビーイングも、より高い次元で言えば
「身近な人の健康を守りたい」
「会社を良くしたい」

という願いの発露でしかありません。
それは素晴らしいことで、多様な見方を相互に視点シェアして、より精度の高い回答を共通の目的のもとに見つければ良いはずです。

しかし、つい本来の目的を忘れて自分の意見にアイデンティティをのせてしまうことで排他的で狭量な印象をまわりに与えてしまいます。
さらに場としては本来の目的とは関係のない意見の対立に成り下がってしまうのです。



2、多様性の大前提の理解



群盲像を評す



我々は、世界の一部しか見えていません。行く末は分かりません。
誰も像を全体から見えている人はいないのです。

環境問題、今回のコロナ、今後の世界の行方を見れば、人類は何も分かっていない事はあきらかです。

私たち1人1人の人生も会社も同じです。

「絶対的な答えはないのです」

この「答えはない」という「知性」が欠落していると、悶々と答えを探し続ける事になります。

そして、力強く断定的に正解っぽい事を語られるとそこに盲信してしまいます入信です。


つまり、絶対的な答えはない中で

自分は自分の経験や情報収集で、ワクチンについて「このような視点を持っている」と評し「あなたの視点からはどう見えてるの?」

というコミュニケーションが健全に行われるべきなのですが、残念ながら多くの人が自分の意見にアイデンティティをのせるという意識レベルにあることで、対立の雰囲気になってしまっているように思います。

昔、野球と政治の話は飲み屋でするなって、良く言われたけどそんな感じですよね(笑)

「へぇそうなんだ。」という態度



ワクチンほど明確な賛否でなくても、会社の中には様々な意見の違いが出てきます。

より抽象度の高い「良い会社」という目的に立ち返り、様々な意見を統合昇華させることはこれからの会社でより大切になると思います。

ついつい意見にアイデンティティをのせたくなってしまう時に、どのように自分をバランスさせるのか?

それが「へぇそうなんだ。」という態度だと思うのです。

理想としては、異なる意見に対しても「なるほどー。そういう着眼点面白いねー」と他の人の意見を多面的な1視点として評価する事ですが、どうしても人は自分の視点から世界を評してしまいたくなります。

「へぇそうなんだ。」という態度は「興味」という態度です。

巨像を思い出し、「へぇ、そっちからはそう見えるんだ!」という心の置き方です。

「自分の意見を否定されて感情的になってしまう。」

その時に、意識のスイッチを
「その人の見え方はどうなんだろう?」という興味に変化させるキーワードが「へぇそうなんだ」だと思います。

「絶対的な答えはないのです」

それは今までの自分の意見も、今目の前の人が言っている意見も同じことです。違う人の意見を、へぇそうなんだという興味の視点で聞くことで、意見は立体的になり、少しは全体像に近付くのだと思います。

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西坂勇人/GCストーリー
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