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時間の密度を考える

リモートが進み、移動や雑談といった無駄な時間が減ったと思います。

コロナが収まりつつある中で、「やっぱり会わないと何も始まらない!」という、今までの思考への揺り戻しも起きていると聞きます。
(一番それをやるのは偉い人との事)

しかし、一番対応の遅れていた行政も、「デジタル庁」へ舵を切りました。

どの程度の着地になるのかは分かりませんが、明らかに仕事の中の「無駄」が排除される方向は間違いないようです。

無駄の排除は良い事のような気もします。
しかし私は多くの人にとって、とても重いテーマが突き付けられているように感じるのです。

無駄に潜んでいた安心


コロナによる変化から半年、コロナによって生活が厳しくなったり業績が厳しくなったり追い込まれている人が一定量います。

他方、当面の心配は少なく、リモートなどによって効率化が進み

「暇」になっている人も多いと思います。

最初のしばらくは暇を謳歌していた人が、

なんとなく「不安」を感じ始めていることを感じます。

「このままで本当にいいのか?」と。

コロナの前の世界は確かに無駄が多かったかもしれません。
でも、その無駄のために時間を過ごしている事で、
「何かをこなした。」という安心を得ていたのだと思います。

なんとなく空いた時間に、ゲームをしたり、ユーチューブをしたり、好きな遊びをしてみたり、大切だと思っていた時間を過ごしてみたり。

やりたかったはずの時間をある程度過ごしてしまった今、

「本当にこのままで良いのか?」という問いが表出しているように感じます。


豊かさとは何か?

「本当にこのままで良いのか?」という問いに隠れている問いが

「豊かな時間とはどんな時間か?」なんだと思います。

今までの私たちは

「生きる為には一生懸命時間を使って働かなくてはいけない。」という
言い訳を持っていたように思うのです。


つまり、「一生懸命働いているから、たまの休みにゲームなどの自堕落な時間を過ごしてもしょうがない。」
という言い訳が効かなくなった時、私たちは

「時間という唯一有限な資源を、いかに豊かに過ごすのか?」

という、あまり考えたことのない課題に直面しているように思うのです。
もしかしたらヨーロッパ人のバケーションの様な話かもしれません。
日本人的な、相互扶助の時間を増やす工夫のような事かもしれません。

世界一のご馳走

何日もろくな食べ物を食べることができなかった人が、久しぶりに食べるご飯が世界一のご馳走だという話があります。

同様に、一生懸命、苦しみながら働いた後の休日に過ごす時間には価値があると感じます。

私たちにとって「豊かな時間」というのはこういったパラダイムの上にのっているような側面があるのではないでしょうか?

人は前後比較のふり幅によって様々な感情を得る生き物だという事は一つの真理だと思います。

では、毎日ほぼ好きなようにご飯を食べられるようになった時にどうするのか?

それを考えなくてはいけないのだと思います。

哲学が必要

豊かな時間
豊かな食事

「本当にこれで豊かなのか?」という問いに対する正解はないと思います。人それぞれですから。

ただ、豊かであるかどうかを決めるのも、意味づけるのも、そもそもそれを選んでいるのも「自分」だという事実がそこにあります。

個人的には

豊かな時間というのは
ひとつひとつの「時間」に祈りを込めることができているか?密度を高めることができるか?だと考えてみました。
そして、その為には

人生は1度しかない
人は必ず死ぬ
人はいつ死ぬか分からない

といった自覚、死生観が必要だと思います。
時間とは、命そのものです。

私たち人類が効率化の末に問われているのはこういう事なのかもしれません。

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西坂勇人/GCストーリー
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