「ギラン・バレー症候群になった私が二浪を経てやっと大学生になる話」3
四肢が完全に動かなくなってから2日が経った。
私はK病院からA病院へと搬送される。
脳神経内科の医師のもと、様々な検査が行われた。
検査結果により、あの病名が告げられる。
"ギラン・バレー症候群"
でも不思議なことに、この事実を告げられた私は意外と冷静で、
3週間程で退院できるだろうと謎にポジティブであった。
母に食べさせてもらいながらの昼食中も割と精神安定。
その時の私はこのような生活がどれほど続くか知る由もなかった。
(医師から詳しい説明を受けた母はどんな気持ちであったか…)
昼食後、突然、私はICU(集中治療室)へ移ることになった。
医師の配慮には感謝している。
しかし、私にとってこの場は地獄のようであった。
特に夜。
ICUには重症患者のいる大きな1室であるため、患者の声はもちろんのこと、看護師さんの声もほぼ丸聞こえである。
多数の心拍数モニターの音も聞こえる。
重症患者の集まりであるため、何か起これば周りが騒がしくなる。
ただでさえ、寝返り動作ができないために、
身体を動かしてもらう2~3時間おきに起きてしまうというのに、
騒音問題が追加され、より寝れなくなった。
(仕方がないことであることは分かっている。)
四肢が麻痺してしまっているため、参考書を読んだり携帯をいじったりなどの暇つぶしもできない。
ただ目をつぶって時間の経過を待つことが本当にしんどかった。
身体は動かないし、上半身は痛いし、(鼻炎もちのため)鼻は苦しいし、
心拍数モニターも暴れがちのおじさん患者もうるさいし…………
何をするにも看護師も呼ばなくてはいけない。
何をするにも人を頼らなくてはいけない。
あーーーーーー不自由。めんどうくせーーーーーーーーー。
って思った。
1人でできることが何1つなかった。
食事、歯ブラシ、顔拭き、排尿(カテーテル)、排便(紙パンツ)、着替え、寝返り等全て他人の手によって行われた。
悲しかった。
私何もできないじゃんって。
ICUに来て1週間経たないくらいで右手が少し使えるようになった。
消灯時間後、久しぶりに携帯に触れる。
痛い腕を頑張って動かし、人差し指を使ってスクロールする。
(手のひらは開いたままで、拳をつくれなかった。)
こんな単純作業でも疲れを伴った。
LINEには複数の通知があった。
高校の友達からの「大丈夫?」という言葉。
母からの通知もあった。
画面上であっても人からの連絡はとても嬉しいもので、
少し笑顔になれたのを覚えている。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
自分でできていたことができなくなることは、とても絶望的でした。
何をするにも人の手が必要で、自分が情けなくなり、看護師さんに申し訳なさもありました。
普通に歩けることや手を使えること、つまり、
"健康でいられること"がいかに幸せなことか
を(今でも)思い知らされます。
たとえお金があったとしても、
健康でなければできないことって沢山あるんです。
私より大変な思いをしながら生きている人がこの世の中にはいるわけで、
私自身後遺症で不自由ではあるけれども、「私/僕よりはマシだよね?」と
思われる場合もあるはずです。
当たり前に思いがちかもですが、"健康でいられること"への感謝は絶対に忘れてはならないと思います。仮にこの先完治できたとしても、その感謝を一生忘れたくないです。発症から3年経とうとしていますが、年々その思いは増しています。
次回は、ギラン・バレー症候群の治療薬摂取中の出来事について綴ります。
それでは。