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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(4)

『李鴻章(り・こうしょう)』
  → 清朝の軍人。太平天国の乱平定に功あり、当時西大后の信頼を得ていた重臣の一人。

『天津条約』
  → フランス海軍中佐フルニエ(Fournier)が、清国政府の広東商館に勤務するドイツ人デトリング(Detring)を仲介して李鴻章を相手に調印した和平臨時条約。これを翌年1884年6月6日フエ条約によって更に補整した。

『ド・クルシイ将軍』
  → 「フランスは既に明治16年8月、安南保護条約を強制的に締結した結果、安南総監とも称すべきものを任命することとなり、ド・クルシイが其の職に就いて任地に赴き、千名の兵を率いて首府順化に乗り込み、皇帝に謁見を求めた。」(安南民族運動史概説)


『咸宜(ハム・ギ)帝』
  → 「1884年建福帝の後を継いで若干13歳で帝位に就いた。翌年、決起檄文を各地に飛ばし自身もフエ王城を脱出、北部山岳部に潜伏3年遂にフランスに捕らえられ、流刑地のアフリカ・アルジェリアで1843年病没した。」(『ベトナム人名人物辞典』より)

『成泰(タイン・タイ)帝』
  → 「1888年即位。19年に及ぶ在位期間中の殆どが軟禁状態にあったといい、維新帝の決起に連座して、(アフリカ沖の仏領)レユニオン島へ流罪となった。」(ベトナム亡国史 他)

『潘廷逢(ファン・ディン・フン)』
  → 文臣出身でありながら野に下り、1886‐1895年までの十年間、ゲティン地方で勤王義軍を募りゲリラ作戦を使って戦いフランス軍に多くの損害を与えました。抗仏戦争時代の最も傑出した人物の1人です。その活躍は、当時のフランス軍大佐‐ゴスラン(Gosselin)の回想記「Empire d’‘Annam(エンパイア・アンナン)」(1904年フランスのパリ(Librairie Academique de Didier)で出版)にこう記されています。
 「潘廷逢は、軍事経営の才に長け、西洋式の高度な兵隊訓練法に熟知している。兵士達は統一された軍服を着用し、1874年式銃を下げている。この銃は、彼らが自分たちでしかも大量に鋳造した銃で、質はフランスのものと全く変わらない。ただ、銃筒内部に溝が無い為、弾が遠方へ飛ばないだけである。」

『初代(コーチシナ)全権総督』
  → 元駐支フランス代表者のコンスタン(Constant)が本国の命を受けて就任した。在任期間は1887年11月2日から1888年5月14日。
 
『現地で雇用したベトナム兵』
  → 鄧摶鵬著『越南義烈史』(1918)に、「フランスは、我が越南を占拠すると、身体強健の壮者を習兵(傭兵)に募った。(中略)血戦場に駆り立ててわが同胞を惨殺させた。つまりベトナム傭兵をフランス人の肉の盾に仕立てた。」との記述があります。

『阮紳(グエン・タン)』
  → 「広義出身で、元は義会に名を連ねたが、後にフランスに寝返り、フランスの走狗のうちでも一番の頭株となった。」ファン・ボイ・チャウは、この人物を、「同胞であり乍ら同胞を愛さず、同胞の苦しみにも平然としている。それどころか異邦人のために刀を取って自らの同胞を殺さねばやまぬ。」として「一体どういう心情なのであろうか。」と書き残している。この頃の抗仏志士達には余程嫌悪されていたらしく、この時代の著作の多くに「国賊」の代名詞のように度々その名が登場する。

『潘廷逢の屍』
  → 「十数年の間、苦汁を嘗めさせられたフランス当局者は、ただ敗将の首を刎ねるだけでは治まらず、その一族郎党を連座させて処刑し、家屋敷を焼き払い、そのうえ彼等に縁のある村までも焼却して村人を殺し或いは四散させた。」(安南民族運動史概説)

『奇童(キードン)』
  → 「奇童は雅号、本名を阮文錦(グエン・バン・カム)、北部出身。アルジェリアに留学の後ゲリラ戦に参加。1897年彼の飛ばした檄に応じた民衆が蜂起した。捕らえられてフランス領タヒチに流刑となった。」(『ベトナム人名人物辞典』より)

『天兵(ティン・ビン)一揆』
→ 1897‐1898年頃、泰平(タイ・ビン)・海洋(ハイ・ズォン)・北寧(バック・ニン)などの各地方で度々起こった民衆蜂起を纏めてこう呼んだ。

『東京(トンキン)義塾』
  → 1907年3月ハノイに設立された進歩的知識人達による私塾です。一時千人を数える青年が学びましたが、同年11月フランス当局によって閉鎖されました。3月-11月ですと、9か月間の活動期間ですね。

『潘周禎(ファン・チュ・チン)』
  → 「号は西湖(タイ・ホー)、別名を嘻馬(ヒ・マ)。中部ベトナム出身で幼少から勉学に優れており、官職を辞め革命活動に入る。暴力による独立運動ではなく、人民の開明民治化による民主的な独立革命を訴え、フランスに渡り活動した。1925年にサイゴンに帰国するが、1926年に病に倒れる。享年54歳。」(『ベトナム人名人物辞典』より)
  → 「明治36年頃になって(中略)ほぼ二つの党派が均しく祖国復興を志して組織せられた。(中略)潘周禎を指導者として結合した組織で改良主義者の集団である。(中略)フランス勢力との協調を志す穏和な主張を掲げている。」(安南民族運動史概説)

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(5)|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note

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