本の登場人物・時代背景に関する補足説明(7)
『鄧子敬(ダン・トゥ・キン)』
→ 南定(ナム・ディン)省行善社出身。
『曽抜虎(タン・バット・ホー)』
→ 中部平定(ビン・ディン)県出身。『越南義烈史』に、「性格は天性豪邁で識見は卓越し」と記述が見える。17歳の時に兄の代わりに入隊し、早くから抗仏戦線に参加し軍功を挙げた。1885年出国して時機到来を待っていたが、日露戦争(1904)で日本が勝利した報を聞き、国内に戻り阮誠らの新党に加わった。ベトナム抗仏独立運動を海外展開への新局面を切り開いた先駆者で潘佩珠の道案内者とも言える。険しい山岳地帯を何度も往復、活動に奔走中、1906年に突然下痢と高熱に襲われ、中部香(Hương)江の小舟の上に身を隠しそのまま亡くなった。享年49歳。
『清国保皇派』
→ 清代末期、「清朝を維持したまま憲法制定等の改革で近代化を図り立て直しをするべし」、との立憲君主制の立場をとった人々。
『康有為(こう・ゆうい)』
→ 清国光緒帝の任を受けて『変法自強』を指導するが、西太后を取り巻く保守派官僚のクーデター(1898年戊戌の政変)で失脚し、日本に亡命した。
『梁啓超(りょうけいちょう)』
→ 康有為に師事し『変法自強』運動を助けるが、西太后のクーデターで日本に亡命。横浜で『新民叢報』誌の主筆を務めた啓蒙思想家であり、当時の華語社会の青年知識層に大きな影響を与えた。
『清国の光緒帝』
→ 清朝第11代皇帝(在位1874‐1908年)。母は西太后の妹。そのため4歳で皇帝に即位した。後に康有為らを重用し国政改革を試みるが、西太后によりクーデターを起こされ失脚、幽閉されてしまった。
『変法自強』
→ 清代末期の光緒帝時代に、康有為らが起こした国政改革運動。
『新民叢報』
→ 横浜で保皇派が発行した啓蒙雑誌。1901年創刊。約6年間続いた。 立憲思想を宣伝し、孫文らの急進的革命主義を否定した。
『梁啓超は、実に丁寧に潘偑珠を迎え』
→ この時の対面の様子を、梁啓超は「ヴェトナム亡国史」の序文にこう記している。「明治38年、某月某日、私が居室にひとり座って、日本人有賀長雄氏の『満州委任統治論』を読んでいると、突然、中国式の名刺を通じて会いに来た者があった。(中略)名刺と手紙を見て、すぐさま服装をととのえて客間におもむくと、客〔藩佩珠〕は一人の従者〔曽抜虎〕を伴ってい た。この従者は、広東・広西のあたりを二十年ほど、艱苦をなめつつ往来したので、どうにか広東語が通じるのである。客は、顔かたちこそやつれているが、その中にどことなく卓越したところがうかがわれ、人目見て凡庸の人物でないことが感じられた。」
『大隈重信伯』
→ 佐賀潘士出身。維新後明治政府の要職を歴任するが、明治14年の政変で官職を辞職。翌年立憲改進党を結成し総裁に就任する。明治31年には板垣退助と共に憲政党を結成し、日本初の政党内閣を組織した。東京専門学校(現早稲田大学)を創立。大正11年死去。
『犬養毅子爵』
→ 備中国(岡山県)出身の政治家。1890年の第一回衆議院議員選挙以来、常に少数党に与して藩閥政府に反対し、大正デモクラシー運動ではその先頭に立った。1929年、立憲政友会総裁、31年総理大臣となり満州事変収拾に尽力したが、5.15事件で青年将校らに暗殺された。
『東京へ上京』
→ 面会場所は、東京愛宕の紅葉館。福島安正、根津一らが歓迎してくれたとある。 『ヴェトナム亡国史』より
『陳東風(チャン・ドン・フォン)』
→ 乂安省南搪県出身。県下随一の富豪の家に生まれるが、生まれ持った義侠心で出国する同志に金銭援助を惜しまなかった。1908年に自身も日本へ渡る。経済的に困窮した留学生への援助を実家に要請するが返事が来ず、これに苦にし遺書を残して東京小石川区の寺で首をつって自殺した。享年僅かに21歳。雑司ヶ谷霊園に今も墓が残る。
『7000万人の民』
→ ベトナム亡国史には、「フランス人の帳簿には2500万人とあるが、捜銀(税金)を為に出生届出をしない者も多いので、実際全国で大体4,5千万人の人口がある」との記述もある。
『梁啓超自身が序文を寄せ、潘が梁との会見時に見せた文章』
→ クオン・デ殿下の旅券申請書が記載されている。
『ヴェトナム亡国史』
『里慧(り・けい)』
→ 潘佩珠が日本へ向かう途中、香港行きの船で出会った中国人の船賄長。この出会い以後、この御仁は現金の託送、学生の脱出・密航などベトナム抗仏志士らへの協力を惜しまなかった。この頃助けてもらったベトナム人は、よほど彼の恩に感謝していたらしく、1965年内海三八郎氏の手元に届いた「自判」漢語版と共にこの里慧氏の写真も同封されていた。写真に書かれた文字は、ファン・ボイ・チャウの直筆という。
『傘述(タン・トゥアット)=阮善述氏』
→ 元軍務大臣、振武将軍。咸宣帝が出奔した後、官職を辞し抗仏闘争に加わった。1887年以後海洋県罷葦地区において抵抗運動を指揮し、ここで2年間抗戦し、フランス軍に大きな損害を与えたが、清国へ逃れた。
『賊の罷葦(バイサイ)軍』
→ 海洋(ハイズォン)県罷葦(バイサイ)の険疎な地形を利用してゲリラ戦を展開。黒旗軍劉永福の加勢もあったため、フランス軍にその名を恐れられた。
『紙橋(カウザイ、ハノイ)戦』
→ 「懐徳府を占領していた黒旗軍が、1883年5月南定(ナムディン)占領中のフランス軍とハノイの紙橋附近の路上で抗戦し、仏軍司令官を死亡させた。」 (『ヴェトナム亡国史』より)
紙橋(Cầu Giấy)通りは、現在もハノイ中心地、ホアン・キエム湖近くにその名が残る。
本の登場人物・時代背景に関する補足説明(8)-ベトナム王国皇子 クオン・デ候のこと|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note