自伝書に『自判』(自己批判書)と題名した潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)はどんな人?
近年、日本人にとってのベトナム、或いはベトナム人の印象は2極化しているように思います。私の親の年代(←年齢70-80歳くらい)は、ベトナムと言えば未だに『ベトナム戦争』と『ベトナム難民』です。やっはり1960~70年代に、テレビを通して強烈なインパクトがあったみたいです。しかし、現代の若者にとっては、比較的治安が良く親日家の多い東南アジアの旅行先…ベトナム料理にスパ・マッサージ、ショッピング。ビジネスでは飛行機でたった五時間の新興投資先として最も注目される国です。そして日本国内では残念ですが、最近在日ベトナム人による軽犯罪が増えてしまい、ベトナム人の印象はどんどん悪くなって来ているように思います。
上記の2極化が進む中、日越交流史とか相手国ベトナムの歴史には殆ど注目がされなくなりました。元々一般の日本人にとっては関心が薄かったベトナムですが、更に文化的な面に対する関心が薄れている気がして、密かに危機感を感じています。このまま上辺の経済関係だけを続けて行けば、何かの節目にふとした拍子で『親日』『親ベトナム』が反転して、一夜にして『嫌日』『嫌ベトナム』にならないとは言い切れないと思うからです。
それで、あまり日本で注目されないベトナム史をずっと取り上げているのですが😅、、、今日は日本でもまだ最も知られているだろう、抗仏運動家だった潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏の遺した自伝書『自判』と書籍記述から、私なりに想像するファン・ボイ・チャウの人間像を記事にしたいと思います。
まず、彼は何故に自伝書に『自判』=自己批判書と名付けたのか?
『自判』ベトナム語訳本を1956年に出版した出版社『英明(アイン・ミン)書店』の呉成人(ゴ・タイン・ニャン)氏は、元儒語寺子屋の先生潘佩珠の晩年に傍にあり、その偉業について序文にこう記しました。⇩
「19世紀の終わりから20世紀の三分の一に相当する期間に於ける我が祖国の志士・大革命家の人生、≪目隠しされ、暗黒の闇に閉じ込められていた我が民族に、道を拓き、僅かな希望の燈りを灯した≫、その真実の足跡を僅かも漏らすことなきように一冊の本として纏め、何とかやっと出版をし流通させた。」
「今から50年前の交通手段をご想像頂きたい。何という困難があったことだろう!フランス植民地政府と傀儡南朝王軍による2重の包囲網は、どんなに厳重に張り巡らされていたことか!そんな時に約200名の学生と我が国の革命志士らは、その包囲網を突破して日本、支那、ドイツ等々の国々へ、巣南(=潘佩珠の号)氏の呼びかけに応じて留学して行った。それは全く我々の想像を絶する、幾多の妨害や苦難に遭ったことだろう。けれども、その志は挫けるを知らずに、遂に驚天動地を呼び起こし、悪辣なるフランス植民地政府を震撼させた。」
「後覚の皆さんにとっては、この『自判』、なんと夢のような出来事かと思うことでしょう!」
1925年に上海で捕えられベトナムに移送された潘佩珠は、国民一丸の救命運動のお蔭で死刑を免れました。永らく国外渡航を厳しく禁じられていた民間人にとれば、奇想天外、破天荒な噂話で溢れていた生きる伝説の革命家・潘佩珠の生涯は、正に夢物語のように捉えられたに間違いありません。呉成人氏は序文の中で、潘佩珠の親友だった黄淑抗(フイン・トゥック・カイン)氏の『市民の声』誌(=Báo Tiếng Dân)の過去記事にも言及し、
「まだ巣南氏が元気だった頃に、Mính Viện(=黄淑抗のこと)氏が(自判の)一部を抜粋して『市民の声』紙に載せた。まだ誰も知り得ない地の果ての、物珍しくも愉快な物語。その時の冒頭文の大意は、まだ読者の記憶に新しいだろう-『巣南氏がまだ健在なうちに、一部を抜粋させて頂くのは、皆さんに能く知っておいて欲しいためです。氏が亡き後に語ったならば、それらは嘘八百の作り話だとの誹りを免れ得ないでしょう。』」
しかし、このような環境下にありながら、当の潘佩珠自身はフエの自宅で軟禁生活を続けて1940年に静かに亡くなりました。『潘佩珠伝』の著者である内海三八郎氏は、当時フエを訪れて、軟禁生活を送っていた潘佩珠を訪ねたそうです。⇩
「私(内海)は軟禁中の潘佩珠をたずねたいと思って、フエの寓居を訪れたことがあります。老婦人が応待に出て来られたので、自己紹介をして、面会したい旨を申し入れますと、しばらく待つように(と)いうことで、いったん引っ込みました。かなり長い間、待たされた末、再びその老婦人が現れて、「潘佩珠は留守です」と告げられました。同志以外の人とは会いたくないという潘佩珠の強い意志の表われだったように思います。」
(富田春生氏「墓と記念碑ー東遊運動が遺したものー」より)
と、このように晩年の潘佩珠は、旧来の本当に親しい同志としか面会しなかったと伝えられています。クオン・デ候の自伝『クオン・デ 革命の生涯』には、同じ革命同志の年長者、阮尚賢(グエン・トゥン・ヒエン)氏と1919年に杭州で再開した時のこんな述懐があります。
「以前は8,9年間ほど共に抗仏運動に奔走しましたが、寝返った同志が罠を張って同胞を陥れる様を見て、督氏(=阮尚賢のこと)は徐々に皆の前から姿を避けるようになって行きます。(中略)晩年は、杭州の寺に隠棲して日々誦経し、潘佩珠以外の人とは誰にも会いませんでした。」
潘佩珠の上海捕縛も、結局はフランスに寝返ったベトナム人同胞の裏切りによる策略に嵌ったのが原因でした。特に1920年前後からは、どんどんと革命運動から離脱してフランスに寝返る同志が続出して、一体誰が敵なのか味方なのか、見当がつかない混沌とした状態で、精神がすり減ってしまったことでしょう。
それでも国内では、潘佩珠たち海外組の抗仏活動を一喜一憂し応援し続けていた一般国民があり、海外抗仏運動の両雄の片割れとして同志を引っ張って来た潘佩珠は、信じられない偉業を成し遂げた英雄だった筈です。それなのに、潘佩珠が自身の自伝書に『自判』と題名したことについて、前述の呉成人さんはこの様に書いています。⇩
「巣南氏(=潘佩珠の号)は、氏の幼少期から海外へ出奔、そして帰国するまでの自身の生涯を書き尽くしたにも拘わらず、この本の題名を唯一言『自判』のみにした。故に私たちは、この原題をそのままとして、副題『潘佩珠自身が語った革命自伝史』を付け足した。」
「巣南氏は原稿全篇に亘り目次分けをせず、また話題毎に見出しを付けなかった。故に私たちは、各章、各段落に小分けして見出しを付け、各話題毎に区切る事で読者に分かりやすくなるよう努めた。」
やはり、この『自判』という題名、しかもそれだけという超シンプルさに、少し奇異な印象を受けたのかと推察します。
そうして、実際の『自判』本文を読みますと、やはりこれは、潘佩珠の『自己批判書』に違いなく、自分の過去の栄光を虚飾して後世に残したいというような物言いは微塵もなく、逆に自分の過去の失敗を曝け出し、分析も加えることで、後世の同胞への”失敗の模範書手引き”となることを願って書いたものだろう、と私には思えました。
どうして、そう思えたのか。それは、本文の序章からも明確な気がします。⇩
「海外で生け捕りにされ、縄で縛られた私の身柄がHỏa Lò(ホア・ロ)の船発着所(→Hỏa Lò(ホア・ロ)は、北部にあった刑務所)に着いた。幸運にも、愛すべき我が国民のお蔭でこの先の僅かな時間この浮身を生き長らえることになった。先に刑を受けて数十年もの間音信不通だった親朋同志らが、突として私の顔を見て歓喜に咽び握手を求める。それらの中には、私を愛する人、私を嫌う人、私を知る人、私の責を罵る人。その皆が、一様にこの私、≪潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)≫の歴史始末を知りたがっているようだった。」
そのことを、潘佩珠は大変嘆くのです。⇩
「何ということか! 私の歴史なんぞ、何だと言うのか!それは、唯々、一棹の完璧なる失敗の歴史。略30年にも及んだ海外流浪の人生。私のせいで、罪に連座し獄に繋がれた者、あの世に逝った者。群国へは戦禍を及ぼし、毒殺流刑の憂き目に遭った同胞ら。いつも真夜中に一人胸を叩き、天を仰いで涙を揮う。我、思う侭に奔走した20余年間に、眉毛を見ては、恥を思う。(→「眉毛を惜しまず」=「喋って心臓が悪くなり眉毛が抜けることを厭わない=人を導くに厭わない貴い心)」) 微かに目蓋に映る名も無き英雄達の皆が皆、どんなにかそれを渇望していたかというのに!」
奴隷には甘んじず、と誓い合って立ち上げた抗仏党。潘佩珠ら海外組の援助の為に国内組は、寄付を集め、東遊留学生の出国手配等危険な作業に身を置きどんどんと悲壮な死を遂げました。潘佩珠は、死んだ同志達の顔を思い浮かべて毎晩胸を掴み、涙に暮れました。それでも、絶望の先に民族の前途を見据えます。
「古今どの時代に於いても、(中略)失敗を経験せずに成功した者があるだろうか? (中略)もし我々が、これらの明確なる失敗を手本にしつつ、急いで改良策を探求するならば、後世の成功を導くべく、この先へ繋がる道を拓けるに違いない。」
そして、周囲の勧めを受け、自身の自伝書を書くことを決意します。
「『失敗は成功の父』と言う。これは正しい。その上で、≪ 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)史 ≫は、後世への見本たり得るだろうか?
「おい、お前がまだ死なないでいるうちに、お前の自伝を急いで書き終えてしまえよ!」と、何度も足を運び催告してくれた愛すべき朋友の恩、謹んで承りここに草稿を書き上げ、標題を『潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)年表』とする。」
「失敗は成功の父」だ。だから、「ファン・ボイ・チャウ史」が後世への見本となり得るか?と問うた、本当に生真面目な性格の方だったように思います。因みに、『自判』の「標題を「ファン・ボイ・チャウ年表」とする」とありますが、後年ハノイなどで出版された『ファン・ボイ・チャウ年表』という出版物の題名は、ここから取られたのかと思います。実際、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の嘆きを抜きにすれば、奇想天外な英雄伝として実に興味深い伝記なのですから。
序文の最後は、自己批判の総括で纏められています。⇩
≪自判の言≫
私の歴史、それは完全に失敗で満たされた歴史である。けれども、その失敗の数々には、明らかな失敗もあれば、所々に自信の持てるものも無くは無い。故に、本編に入る前に幾つか纏めて置きたい。
1)自任(=自分の能力がその任務にふさわしいと思い込むこと)の念が強過ぎた。(中略)「自己の能力を計り損ねた罪」
2)人に対して誠実過ぎた。(中略)「機警(=機転が出来る)、権謀術数に無策の罪」
3)人物・物事を計るに、大事ばかりに注意を向け、細事を疎かにして思い付きの儘に行動した。(中略)「機微を欠いた粗略の罪」
以上3つが、私が持つ最も大きな痛ましい病だ。他に有る数々の事柄は、自分自身の心の中で責めを負う。とても此処に書き切れるものではない。
それでも、自分で「少しは自信を持てること」を挙げ、1)危険を冒しても事を起すこと。2)人と接するとき、もしその言の半分でも聞き取って、少しでも善が有ると思えばこれを一生忘れなかったこと。3)どんな時でも真の目的の為、最期の5分間に成果を収穫するべく集中したこと。の3点を挙げています。そして、この『自判』で自身の恥・失敗を正直に告白したことに対して、こう締めくくっています。
「私の事を知り得ただろうか? 私の罪を? 私は、その全てを甘んじて受け入れたい。」
本当に生真面目で、正直で、仲間思いで、優しく、人懐っこい人間性で溢れている人だな、、と、彼の文章に触れる時、私はいつもそう思います。
以上、潘佩珠が、自身の自伝書を『自判』と名付けた意味と背景を、序文の文章などから見て、私なりの解釈を記事にしてみました。
最後に、この『自判』に、とても印象深く、意味の深い文章がありますのでご紹介します。
「私が生まれ落ちた年は、丁度我が祖国が南圻(ナムキ)地方を失い5年が経過した頃であり、赤ん坊が発する産声は、恰も『おい!お前は既に亡国者だぞ!』との警告にも似た。」
私は、何度読んでも、身体から力が抜ける感覚が走ります。自分の娘や孫には、こんな思いはさせたくない。「おぎゃー」という赤ん坊の泣き声は、未来永劫家族及び民族への、幸福の掛け声であって欲しいです。