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25年前ベトナム鉄道一人旅の想い出 ~ホーチミン-ハノイ線、ハノイ-ラオカイ線~

 先日の30年前のベトナム・ダナンの想い出と私の忘備録😅」に続き、またまた思い出した、25年前のベトナム鉄道一人旅の想い出・備忘録です。😅😅

 1998-99年頃、ホーチミン市サイゴン駅の始発で36時間位掛けてハノイ駅まで旅しました。飛行機ならたったの2時間、でも汽車に乗りたかった、、、ただの好奇心です。(笑)

 以前こちらに→戦前古書に見る、ベトナム高原鉄道『達拉(ダ・ラット)線』のこと 」で、中部ダラット高原にぽつーんと残った沿線を取り挙げましたが、こちらのサイゴンーハノイ線は『満鉄東亜経済調査局刊 叢書・改訂仏領印度支那篇(昭和16年発行)』によれば、
 
 「(インドシナ)総督ポール・ドゥーメルにより発表された鉄道建設計画で、(中略)河内(ハノイ)より西貢(サイゴン)を経て金邊(プノンペン)に至る印度支那縦貫鉄道(総延長1,627粁)と滇越(てんえつ)鉄道の二大幹線の建設を計画し1898年の本国議会に於いて之が建設資金の一部として二億法(フラン)の公債を発行する権限を獲得した。」

 と書いてあります。
 公債募集開始は1899年、同時に北部で建設工事が1899年から、南部では1901年からスタートしたそうですが、このよう⇩に、ベトナムでの『鉄道建設事業』は昔から大変な難事業だったようです。。😅😅

 「…他方資金の流出も多く1910年には2億法公債により得た建設資金は殆ど消費されるに至った。(中略)…資金として1931年に13億7千万法公債、1932年に2億5千万法公債、更に1934年には1億7千万法公債が発行された。」

 当時フランス本国が背負った負債はかなりの金額に上がった模様。。。
 そうして「河内-西貢を結ぶ印度支那縦貫鉄道が全線開通されたのは1937年」、結局なんだかんだと38年もの歳月が流れ、やっと全線が完成した訳です。。💦💦

 さて、私の縦貫鉄道の想い出ですが、、、
 チケット片手に寝台車に乗り込み、これから36時間汽車旅を共にするのはどんなご家族かしら~と期待に胸を弾ませていると、なんと、同室はサイゴンからハノイへ出稼ぎに行く〇春婦のお姉さん2人と業者らしきおじさん一人という御一行様でした。。。(笑)😅😅😅
 昭和テレビ世代でバブル期を越え、色々社会勉強もしてたとはいえ、そういう世界もあると知ってただけで、狭い空間で36時間の”同居”は初めての経験、お蔭で強烈な想い出になりました。
 サイゴンを出発して次の駅で、カーキの軍服軍帽着用のきりっとした青年将校さんが乗車してきて、4つあったベッドは私、青年将校、そしてお姉さん2人とおじさんは3人で2台(←不正乗車(笑)。。)でした。

 私が、貰ったミカンの皮や餅の包紙を手に持っていると、直ぐに車輛の窓から放り投げ捨ててくれたお姉さん。礼儀作法は別にして、気の良い面倒見いい人達でした。夜になり、寝ている私の頭近辺で話声がしました。
 ”あら、やだ、この子、ゴミ集めてる!” 
 私のゴミを溜めたビニール袋を発見し、
 ”あ、聞いたことあるー。日本人は礼儀正しいからゴミを捨て散らさないって。じゃあ、この子、ゴミ持って帰る気だ。なんだ、でも、えい、捨てちゃえ!”
 と、車窓を走り去る外風景へ向かってゴミを投げつけ、綺麗に片づけてくれたので、私はそのまま寝たふりしてました。

 2、3日目、青年将校さんは郷里で臨時休暇でしょうか、途中駅フエで降りました。少々特殊な人達との短い同居の中で特に会話はせず、私は寝台部屋を出て行く将校さんへお辞儀しただけ。それから、停車中の車窓からホームをぼんやり眺めてたら、結構前に降りたはずの将校さんが目の前に走って来ました。軍帽の下の将校さんは溢れる笑顔で、車窓越しに手を差し出します。握手すると、はにかんで照れた笑顔が本当に綺麗でした。
 最後に将校さんが言った言葉は『Cảm ơn (ありがとう)』だけ聞き取れると、後方からお姉さんの声が。 ”あら、あの将校じゃん。なんだー、純だねー、あんたのこと憧れてたのね、あんた日本人だし。”

 今でも私の心の風景は、はにかみながら笑顔で去って行く将校さんの後ろ姿に、風に散る満開のの背景が浮かぶのです。何故か。それは私が、中学の国語授業で憧れてた、島崎藤村の詩『初恋』を重ねたからだと思います。
 まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

 やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
 薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

 時期は秋、林檎の木、、と桜は全然関係ないですが、、、😅 
 恋焦がれた『古き良き昔日の日本』。もうその頃既に日本にそんなもの消え、世間も大人もテレビもただ慌ただしく、教科書は単なる『化石見本帖』となり、もうこの世に無いのさと諦めてた崇高且つ純潔な古き良き世界が、そこに在りました。
 多分、将校さんは前晩の寝台部屋での話が聞こえ、秩序を守る日本女性へ敬意を表してくれたのか。しかし私こそ、将校さんに今でも感謝してます。あの想い出もあり、何があってもベトナムを嫌いにならずに今日まで来れた。😊😊

***********

 ハノイ駅に到着して友人宅で一泊し、翌日更に汽車で国境の街ラオ・カイへ。そこからバスで北部避暑地サパを目指しました。
 サパの少数民族の村での面白い事件は、ここ→「1926年設立 ベトナムの新宗-高臺(カオ・ダイ) その(2)に少し書きましたが、このツアーの帰り道、雇ったバイクがエンストしたのでした。。。
 ”よし!頑張れ!今だ!もっと押せ!”と声掛ける運転手と、ヘロヘロになりながらバイクを駆け押す日本人観光客。。。すれ違う少数民族の女性が、通り過ぎた所で堪え切れないという様に噴き出す瞬間、、、正にマンガの世界でしたね。(笑)🤣🤣🤣

 さて、このハノイ-ラオ・カイ線は、戦前地図を調べると、どうやら『滇越(てんえつ)鉄道』の残置線の半分に当たるようです。詳しく見て見ると、⇩

 「滇越(てんえつ)鉄道の敷設権は、フランスが日清戦争後、所謂三国干渉の結果、1898年4月1日の仏清協定により、広州湾の租借権及び海南島、東京(トンキン)に隣接する広東、広西、雲南三省の不割譲の約定と共に、取得されたものでる。(中略)1901年、海防(ハイ・フォン)、ジャラム間の工事が着手され、(中略)1906年2月には国境の都市、老開(ラオ・カイ)まで全通するに至った。(中略)…斯くて昆明迄全線の開通を見たのは、1910年4月である。

 こう⇧記述があり滇越(てんえつ)鉄道の名の通り『滇(=雲南)~越(=ベトナム)線』です。(上⇧に古地図を張り付けてます。)
 要するに、インドシナ側は『海防(ハイ・フォン)-河内(ハノイ)-老開(ラオ・カイ)』、続けて中国国境を越え『河口-雲南府』までを結んでいた2国間縦貫鉄道だったようですね。その為なのか、経営は本店をフランス・パリに置く滇越鉄道会社』で、この会社はフランス本国法適用のフランス法人会社であり取締役は全員フランス人でした。(インドシナ銀行と似てますね。。→仏領インドシナの中央銀行『印度支那(インドシナ)銀行』と『通貨発行権』」)
 
 
ベトナム戦争後の修復で現在のハノイ-ラオ・カイ線とハノイ-ハイ・フォン線となって復活したのでしょう。

 因に、昭和16年の南満州鉄道株式会社(満鉄)の史料によれば、
*海防(ハイフォン)埠頭-河内(ハノイ) 104キロメートㇽ
*河内(ハノイ)-老開(ラオ・カイ) 291キロメートル
*河口-雲南府 464キロメートル
 
 合計で全長859キロメートルです。

 さて、ここから私の思い出・忘備録です。
 サパからハノイへ戻るべく、再びバスでラオ・カイ駅へ行きました。
 駅は西洋人バック・パッカーでごった返してます。汽車の発車時間待ちの間、駅前広場に出てた屋台に座ってフォー(ベトナム米粉うどん)を頼むと、小学2,3年生位の男の子が靴磨きセットを小脇に抱えて、靴を磨かせろと頻りに周りをうろうろします。
 幾度断ってもめげずにニコニコして、どことなく愛嬌があります。その内に屋台のおじさんが、”客の食事の邪魔だからあっち行け!”と追い払うと、何とも情けなーいしょんぼりした表情で、トボトボと向こうへ歩き出すので思わず声を掛けました。
 ”列車が発車しちゃうから靴は磨けない。その代わりフォーをおごってあげるから。”
 男の子は、初め意味が解らずきょとんとして、それから、本当に御馳走してくれる!と悟った途端、飛び跳ねるようにちっさなプラ椅子に滑り込んで、葱抜きとか卵入りとかあれこれ注文を矢次早にまくし立てます。いつも追い払ってる屋台のおじさんは、バツが悪いみたいで苦笑いしてました。そろそろ列車が出る時刻になったので、2杯分の支払いを済ませ、男の子に声をかけてから駅舎に入りました。

 発車して結構時間が経った頃、一番上の寝台ベッドで寝っ転がってると、”あ、いた、いた!” 、声はあの男の子でした。友達も一緒です。どうやら、こういった貧しい家庭の子供らはラオ・カイ駅から次の駅まで無賃乗車ができたようで、連れの子たちに得意げにさっきのフォーの自慢話をすると、この人は自分のお客さんだ!と、どうしても私の靴を磨く、お金は要らないんだ、と言って譲りません。結局私が折れて、靴を渡してまた寝台に寝っ転がりました。
 天井を眺めてると、どんどん、どんどんと時間が流れて行く。。。
 ”あれ、いやに長いなぁ~…”と思った瞬間、はっと、”あっ、盗られた!!” と分って、やられた~と、とっさに飛び起きて下を覗き込んだら、丁度ベッドを見上げた男の子の煤汚れたくりくり顔と鉢合わせになりました。
 にっこり満面の笑みで、”はいっ!!”と渡されたピカピカの靴。不覚にも何も言葉が出ない。その時、廊下を歩いて来た車掌さんが、
 ”おっ、坊主、今日は客に有りつけたのか、ラッキーだったな!”と声を掛けると、男の子はムっとして懸命に言い返しました。
 ”違うよ! お金なんかとらない。これはこのお姉さんにフォーの恩を返したんだ!”
 にやにや笑いで廊下を歩いて行く車掌さん。その背中を見つめる男の子の横顔は、満足感や充足感に溢れてて、何とも凛々しく清々しく美しかった。
 通り掛かった同業の友達が、もうすぐ次の駅だから急げ、とでも声を掛けたのか、男の子は手早く商売道具を片付けると起ち上り挨拶して、屈託ない笑顔で鼻歌を歌いながら友達と廊下を駆けて行きました。

 男の子が居なくなった後、一人で延々と考え続けました。
 こんな田舎の、こんな山奥で、
 盗られた!!と邪推した日本人の私と、一期一会の靴を一生懸命ピカピカにしてた男の子。
 一杯のフォーの恩を返すその意味を、ラオ・カイの幼い靴磨きから教えて貰い。日本で、自分は一体何を学んだのか、何を知ったつもりでいたのか。心底では、自分の保守したい狭い世界--社名、財力、贅沢、名声、外見、世間体。。。等々の夢幻定規に一喜一憂してただけ。
 大きなハンマーで殴られたような衝撃は、ハノイ駅到着まで寝台ベッドで一人考え続けました。

 

 

 
 
 
 
 

  


 
 
 
 
 

 

 

 

 

 
 

    

 

 

 

  
 
 
 
 

 

 
 

 
 
  

 

  


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