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陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏『越南史略(Việt Nam Sử Lược)』の序文をご紹介します。

 8月26日に投稿した記事で、ベトナムのローマ字化文字による初めてのベトナム史本、陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏による『越南史略(Việt Nam Sử Lược)』をご紹介しました。ネットに写真がありました。⇩

 これは⇧、1951年版のようですが、私が持っているのは1971年版ですので、もう少し綺麗です。。。チャン・チョン・キム氏は、1953年にお亡くなりになりましたから、私の物は、多分一番最後のアップデート版だと思います。大ベストセラーでしたので、重版を重ねていた証拠ですよね。それだけでも、ベトナム歴史界におけるこの本の存在感は桁違いだと言えますよね。。
 どんな方だったんでしょうか、、写真でしか見る事しか叶いませんが、⇩


 やっぱり真面目そうですよね~。私の義父にどことなく似ています。義父は熱心なカオダイ教信者で、金銭、服装、食事、生活様式一切に贅沢はせず拘りのない人で、勉強一筋、いつも笑顔の優しい義父でした。
 どんな方で、何を考えていたのかな、と詮索し、あれこれ調べて見るより、キム氏の書かれた『越南史略』の序文に全てが語られているような気がします。私は、初めてこの序文を読んだとき、本当に身体に衝撃が走りました。。。当時のベトナムの方々の素朴さ、純粋さ、生真面目さは、どんなに語っても語り切れないので、その代わりに是非この序文を読んで頂ければ幸いと思います。

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はじめに

 歴史とは、単に「過去の出来事を書き留めた本」だというだけでなく、その核にあるものを推量し、昔の人々が興した事業の根源にあったものを考察して、一国の吉凶盛衰と、その民族の進歩水準に深く理解を馳せることでもある。 
 主なる目的は、我々の先人たちがどんな生活をして、老心老躯を尽くし現在の我々子孫へ、天下に恥じないこの国土を残してくれたのか、国民全てがこの恩を永遠に忘れることなく、光を当て照らし続けることにある。 
 国民全てが、自国の祖国史を正しく理解することで、初めて国家、家族を愛する心が生まれるのである。だからこそ、苦学して学問を収め身を興して、祖先が建設し残してくれたこの国家社会に対し、何かしらの勤労を奉仕することで国家の役に立とう、人間はみなそう考えるものである。それゆえ、独立した機関と体制を整えて国を建国した民族は、みなその民族独自の歴史を持っている。
 我々べトナム民族の国史編纂の開始期は、13世紀の陳氏統治時代からであった。そうしてそれ以降、歴代為政者や皇帝が祖国史を編纂し代々繋いできた。しかし、その編纂方法は、何年何月にどのような重要な事が起った等々と、順に記述していく方式=支那流の編年方式を取っていたため、史上発生した事件を要約して言及し書き留めてあるのみで、事件の起因や、他事件への派生関連性などを追った詳細な記述がない。
 また歴史家は宮廷に仕える官吏だったのだから、皇帝の命を受けて歴史書を編纂している都合上、完全に自由に記述することは叶わず、必ず自らが仕官する皇帝へ配慮する必要があった。そうであるから当然、その内容は皇帝に関係することに偏り、民間世俗の進歩に関することはなおざりにされたであろう。加えて、昔日は専制統治時世ゆえ、皇帝の血族である特定の一氏族で皇位を継承した。そのため、歴史家らの歴史書編纂方法もその方法を周到したことで、結局皇帝の在位中に纏わる話のみしか記述がない。ゆえに、過去に我国で編纂された歴史書は、あまり学術的価値が高いとは言えない。
 
 自国の歴史書はこれを頼みとできず、かといって自国史を知る国民も多いと言えない。自国の学問は、国民が歴史を学ぶことを可能にしない。大人も子供も、「書籍を脇に抱え学校へ行く人たち」と言えば、「支那史」を学びに行く人々で、「自国史」を学びに行くのではない。詩賦文章と言えば、全て支那の故事から来たもので、自国の話など全く言及はない。自国民が自国の話を出したところで、そんな些細な話を持ち出して、一体何がいいたいのか?と問われかねない。果たして、今日までこんな状況だった理由は、我々が国文を持たなかったせいである。昔からもう長い間、他人の言葉を借り、他人の文字を借り勉強をしていたからだ。万事において、他者からの感化を受容するのみで、自分自身には何も特色などは持たなかったためなのだ。
「自分の家のことは怠けてるが、親戚の家の事になると熱心に走り回る。」
 正しく、この諺通りだったのだ。

 自国の学問は態を成さず、人々の感性もそのような状態に置かれていたとすれば、「民の為、国家の発展」へ身を捧げる「献身精神」など、どこからやって来ようというのか?
 しかしまだ、自国史が存在するだけでも良しとせねばなるまい。過去に祖国で何があったのか知ることで、そこから、祖先がどんな運命を巡って今日に辿り来たのか、推論を導き出し、考察研究することが可能だ。現在ならまだ、儒語を読むことが出来る人は国内に多く残っている。かといってその全員が、国の諸々話を知る訳ではない。まして近い将来、だんだんと儒語を全く学ばなくなって行く社会において、自国史と自国史に関連する学問研究が直面するであろう困難の大きさは推して図るべしだ。

 近代に入り、我国の教育界は大きな変革があった。国語教育が全国に普及したおかげで、自国語のみを使って自国話を語ることが出来るようになったのだ。だから、今ここに、「ベトナム史略」を上梓する。本著は、史実の流れに沿って順序を整理し、それぞれ時代区分を分け、各章、各項目毎に記述内容を明確にした。このことにより、誰でも祖国史を知る機会が生まれ、誰でも自国の説話を理解できるようになった。我々ベトナム民族の歴史学問が、以前に比べたら格段に便利になったと言えるだろう。

 編者は、この本「ベトナム史略」を5つの時代に分けた。第1時代は、鴻厖(ホンバン)氏から趙氏までの「上古時代」。この時代第3章以降は、秦以前の支那社会について論じている。その殆どは、昔年の歴史家たちが伝説の類を書き留めた荒唐無稽の話ばかりで、遺跡等は何も残っていないため、これを考察研究したうえでの史実として確定はできない。とはいえ、編者はそれらも昔日の歴史家が書き残したと同じように記述することを試みた。その部分に関しては、読者に対し史実かどうかの確証が無い旨を知らせるために、一言編者の批判文を付け加える体裁を取った。

 第2時代は「北属時代」、漢の武帝が趙氏の土地であった南越を占領してから5季時代までである。我国側では、これ以後曲氏と呉氏によって国家独立を果たすことになる。だが、国に残る古い歴史書には、この頃の詳細な記述は無い。北属期頃、まだ我が国民は未開明であり、自国の書籍も持たず学識の面ではかなり遅れていた。そのため、この時代の国内の歴史家らは、伝承を書き残すだけに留まりこれを考察する手立てがなく、ただ単に支那の歴史を書き写す作業をしていた。そして、支那側は、その当時の我国を野蛮な辺境地であると考え深く注意も払われずにいたため、支那史書の中に登場する我国に関する記述は、非常に簡素なものとなっている。そのうえ、記述主体は、我国の統治に関する事柄や賊征伐などであったので、それ以外の事業等についての言及は全く見当たらない。
 
 北属時代は長く、約1000年以上続いた。しかし、以上のような理由で、この時代の我国の民間世俗がどのようなものであったかを詳しく知ることは難しい。1つだけ明確に言えることは、その時代から支那文明が深く我が国民に浸透していったこと。そしてその結果として、後々に支那からの支配を打ち破る気運が高まっていったということである。その支那文明の影響は現在まで連綿として続いて来たため、今は違和感も消え我が國体に一体化してしまった感がある。それゆえ逆に、国粋主義を唱えて支那風を排除しようというような気風もあるにはあるが、かといって即刻これを簡単に我身から洗い流すようなことは不可能だ。現在、我々の政治家らによって新旧交代政策が打ち出されているが、国の制度改革案に、我々の方向性への指針を見ることができる。

 第3時代は「自主時代」、呉氏、丁氏の統治期から後黎氏初期までである。この時代以降が我国の独立時代と呼べる。支那に対しては以前、冊封関係にあったが、他のどの国からも支配統治を受けない、自主独立時代であった。
 この丁氏、黎氏統治の初動期は、自主国家の基盤構築や外賊に対抗する防備建設に勢力を集中したため、学問に関してはあまり進歩が見られなかった。その後の李氏、陳氏時代になってから、やっと国内事業が段々と固まって行き、外敵の侵略狼藉も一時収まった。そして、この時期に多くの賢帝が輩出し、跡目相続をうまく引き継ぎながら国内政治を行ったので、それ以後の政治、宗教、学問などは日増し飛躍的に発展した。この時に我国の勢力は次第に増していき、北部地方で支那に対抗できる力を備え、南部へ領土を広げていくことが出来たのである。
 李氏、陳氏の時代には、特筆すべきこととして、民間の国家意識の発揚を挙げたい。そのため、後ほど陳氏が衰え、胡氏が台頭し国内を荒廃させて、支那人に接収されそうになった時にも、国民一丸となって力を合わせ、祖国の山河を自らの手に取り戻すことができた。さらに、黎氏時代開始後100年間位は、「興隆時代」と呼べる。特に、クアン・トゥアン帝(1460-1469年)とホン・ドック帝(1470-1497年)の施政は、文治武公の発展において際立った偉業が見られる。しかし残念ながら、後継に愚帝があったことで、領主の台頭を許してしまい、それにより朝廷政治が崩壊して佞臣による騒乱が起ったのだった。そこから勃発した戦乱は、国民同志お互いに殺し合い、北と南に分裂し領主同士で権利を争う、祖国最大の変動期となった。
 
 第4時代は、「南北紛争時代」、莫氏から西山氏までを言う。前期は、南部黎氏と北部莫氏。後期は南部阮氏と北部鄭氏に分かれ争った。南北間の諍いは日に日に大きくなるばかりで、お互いの憎しみも激しさを増すばかり。三綱は薄っぺら、五常は上辺だけになってしまった。国に皇帝はいるが、領主もいる。南も北も、お互いバラバラの祖国山河を持ち、その土地の話はその土地だけのもの。しかし、そのような時でありながらも、北部の外敵防衛策の改善があり、南部も着実に発展した。だが、不幸とはいつどんな時に襲ってくるものか本当に判らないもので、それは突として、一陣の風塵のように西山方向から吹きつけて来たのだ。
 皇帝も領主も西山兄弟によって壊滅状態にされてしまったが、結局西山兄弟の権勢も20年持たなかった。そしてそこへ、本家阮氏の中興があり、祖国の山河を元の通り統一して、今日のようなベトナム国の景勝を取り戻した。
 
 第5時代は、「近世時代」、世祖帝(=嘉隆帝のこと)本朝から現在のフランス保護期である。一番初めに世祖帝がフランスと繋がりを持った理由は、西山党を倒すためだった。後の開祖の子孫たちは開祖と異なり、天主教を厳禁にして、外国の貿易活動を禁ずる鎖国政策を取った。朝廷に仕える廷臣の多くは、知慮狭隘だというのに傲岸不遜の態。時勢に対応出来うる政策改革を実行することなど全く無かった。こういった状況が、外洋からやって来る外国勢との間に不和を招き、最終的に自国の権利庇護を主張したフランスが、兵力でもって我国に対峙したその結果が、現在置かれている保護政策下なのである。
 
 以上が、編者が分けた時代区分毎の大まかな記述内容である。編者は、儒語とフランス語歴史書だけではなく、様々な民間伝承も比較検討を試みて、これら全てを丹念に調べ研究考察し一冊の本にまとめた。明らかに虚構話と断定できるものは、この本からは除外した。なぜなら、自国史を学ぶ我が同胞に、そういった虚構話を安易に信じてしまうことが無いようにとの考えからである。どの時代、どの人物、どの事象においても、編者は冷静な目で、公平な判断を持って史実として記述することを心掛けた。時折数か所ほど、後日に賢読者との討論を試みるために、編者の個人的見解を注釈として付け加えておいた。例えば、西山党の名号に関しての箇所。編者は、歴史は国民共通の所有物であって、一己の氏族や家系のものではないという信念を一貫して持っている。この本の編纂にあたり、歴史考察においては、編者の信じるこの公理に偽りなきよう、決して個人的な考えを入れて史実を曲げ、公正道理に反する事のないよう最大の注意を払った。
 
 読者諸氏にぜひ知って置いて頂きたいことがある。本書は、「史略」であって、過去の大きな出来事をアウトフレームに、史実編史として体裁を整えたものである。それは、国民が歴史を学ぶことを所望したとき、すぐそれを手助けする本が手元にあるようにとの想いで、取り急ぎ臨時に編纂した本だということだ。将来、最も待望されるのは、我国の「正史」が編纂されることであるから、この「史略」を土台にして、更に詳しい研究や批判討論が活発になされるよう、どうかこの後、賢明なる読者先輩諸氏皆さまには、我国の歴史学の礎のためご功労を頂けますようにと祈るばかり。
 今我らが身にまとっている着物は絹織物ではなく、綿織物だ。当然品質は良くないけれど、とりあえずは寒さを凌いでくれる。言いたいことは、今日我国の青少年誰もが、自国史を正しく知れば、自分の祖国に対し引け目など感じることなど決して無い。それが、編者の唯一の望みであり、もしその心が読者に届いたならば、この本「ベトナム史略」は、それだけでも有益な本だと言いたい。


  




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