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昭和13年亀井貫一郎氏講演‐『ドイツ人保護の想い出とナチスの吉田松陰カール・ハウスホーファー先生』

 昭和13年8月 東京講演会発行『講演 第406号 ナチス新興経済の指導原理と政策 -訪独視察報告- 亀井貫一郎氏』より

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 只今ご紹介に預かりました亀井でございます。お招きに預かりまして、ご報告申し上げまする機会を得ましたことを、甚だ光栄と存じます。…

 …そこで、然らば向こうがお前に話した話は一体どの程度まで信頼が置ける話か。色々な人が日本からも沢山行っているけれども、どの程度まで向こうはお前に打ち明けたのかというと、私にも分かりません。ただ相当打ち明けたたのだろうと思われるのは、誰が行っても呉れない所の1935年3月31日以後のドイツの予算書類を、公表を禁ずる条件で私に呉れました。又ここに持って来ておりますが、これも非売品でありますけれども、向こうの幹部だけが持っている一種の秘密刊行書でございます。…それではどうしてお前に呉れたのか。お前が偉いのかと仰ると、私が偉いのではない。…宿命の因縁なんであります。…
 実は1919年の欧州大戦争の当時であります。…非常に若い癖に欧州大戦争当時配置されましたのが天津で、天津総領事代理をさせられたのであります。その時にイギリス政府が連合国側に提議を致しました問題は、…所謂レパトリエーションという問題でございます。即ちイギリスの提議で参戦国たる支那と協力致しまして連合国側の官憲の手によって支那に居るドイツ人を一斉にふん掴まえて、これを全部ドイツ本国に送り返すという問題であります。即ち在支那独墺(ドイツ・オーストリア)人本国送還問題であります。
 その時のイギリスの肚の裏は何であるかと言えば、御承知の通り支那人をして、支那の敵国人財産管理局をしてドイツ・オーストリアが支那に於いて持っております権益ー今日問題になって居ります河北省のハンネッケンの炭坑、或いは大同の炭坑、或いは熱河凌源県の金鉱、或いは漢口にありますドイツ汽船会社、ハンブルグ・アメリカンの埠頭或いは倉庫、これ等のドイツ、オーストリアの支那に於ける全財産を支那の財産管理局に没収させまして、それをイギリスが裏へ廻って、只同様で競落して肩代わりしようというのが、イギリスの提議の肚なのでありましたが、そういう訳で、結局中支那、南支那の独墺人が送り還された。その乗せられた船は、アメリカから今までドイツのハーゲン・ベックの動物園に、キャメルとかライオンとか猿とかを積んで送った、その動物船に乗せて送り還されて来た。随ってその衛生設備は極めて悪いのでありまして、遂に女子供にしてその祖国を見ずして船中に疫痢のために病歿致しました人が170人に及んでいるという、不衛生極まる状態でありまして、これをドイツ人は大戦争における屈辱の記念として、…これはドイツとしては忘れることの出来ない、非常な屈辱の記念塔なのであります。

 ところが当時は内田内務大臣でありまして、…帝国政府は連合国と強調を主に致しました結果、在支独墺人の本国送還問題に対しましては、連合国即ちイギリスと歩調を合わせるということに閣議が決定を致しまして、而して領事館警察の力を以ちまして、済南、青島及び天津の三領事館管轄に於いては、北支在留独墺人を一斉に掴まえて、これをドイツ本国に送り還すために、支那官憲に引き渡すということを致したのでありますが、考えて見ると当時は私共若気の至りで、これは聊か日本の武士道に反するではないか、軍人ならば掴まえて殺すも宜しいが、女子供までも、而も一通り休戦条約を結んだ後に於いて、これを支那から而も動物船によって、態々死の運命を前に於いて送り還すということは、これは日本精神に合うことであろうかと考えました。併し若い者が変なことをすると、すぐ首を切られます。当時の天津に居られました駐屯軍には、今日の陸軍の錚々たる人が居りました。司令官が後に参謀総長に任ぜられた金谷範三氏。参謀が今の中将、川岸文三郎君が当時は少佐、主計総監をして居られた小野寺君が当時は主計少佐、満州の森独立守備隊長の下に居る上野大佐が当時大尉でありました。大いに天下国家を論じて居ったものですから、そんなやり方はなかろう。これは一つイギリスの鼻を明かしてやろうじゃないかというので、私共は総領事官舎及び総領事館、海光寺の兵営、軍司令官官邸並びに、大倉組、三井、三菱、郵船の支店長のお宅、これ等に一切のドイツ人、オーストリア人を匿ってしまって喧嘩を致しました。詳しいことは長くなるから止めますが、幸いにして当時の小幡公使は非常にものの分かったお方で、私共怒られましたが、結局吾々のやったことを庇って頂き、公使団に強く交渉を致しました。そこで連合国大公使にしてその身許を保証する独墺人については、この限りに非ずという除外例を出して、その実北支に居た独墺人を悉く庇ってしまったのであります。これは非常に自画自賛になりますが、これをお話しないと、なぜ私にこの重要書類を呉れたのかということが分からないから話すのでありますが、これは私一人がやった仕事ではない。当時の出先の軍部と吾々が一緒になってやった仕事であります。

 ところが、その中に実は24歳の青年が居った。これは又非常に愉快な男でありますから、特に私の官舎に匿ってそうして日夜天下国家を論じて居った。この男は名前を
ハウスホーハーと申しますが、この親父は何であるかというと、ドイツから日本に来て居りました日本駐在の武官で、伏見連隊附武官を致し、後に東京に転任して明治大帝陛下の御信任が厚く、その後長く日本に居りまして、ドイツに帰りましてからは『エンペラー・ムツヒト』、『カイザー・ムツヒト』という、明治大帝陛下の御治蹟をドイツ語で書きましたような親日家であるのみならず、実に東洋哲学と日本精神の研究家であります。この人が戦争の当時ドイツにありまして、師団長として活躍を致した後に、敗戦後軍縮に依りまして解雇されまして、その後ゲオポリティーク(政治地理学)に基礎を置きます世界政策の講座を受け持って居りました所がミュンヘン大学であります。このミュンヘン大学のハウスホーハー先生のその研究のグループの中から出ました生徒が、これがヒットラーの代理をして居ります今日の総統代理ヘツスであります。又その中に居りましたのが今日の外務大臣リッペントロップであり、その研究グループで東洋思想を攝取致しましたのが、今を時めくドイツの総統ヒットラーでありますから、ハウスホーハー先生はナチスが天下を取りましてから、日本で言えば学士院ですか、兎に角一番学者を集めた機関の総長になられました。去年までやって居られた。ナチス政府を明治新政府に例えますならば、ハウスホーハー先生のナチス政府に対する影響力は、丁度吉田松陰先生に当たるような人でありまして、その息子を、私は犬も歩けば棒に当るという訳で助けたのであります。
 ところが支那事変が昨年の7月に勃発して、小ハウスホーハー(=息子)が特にリッペントロップの命を受けて、日独防共協定の後を受けての国交を調整する民間の有力なる人と致しましてやって参ったのであります。そこで約20何年前の旧交を復活して、方々お取次ぎして一緒に歩いて居る中に、御承知の通り日独間の問題が色々とあることになったのであります。兎に角日本とドイツとイタリアというものは、ロシア及びイギリスを相手に致します一つのシックザール・ゲマインシャフト(Schicksalgemeinschaft)運命の友達となるような情勢であるにも拘らず、当時の日独関係というものは中々旨く発展する状態にもなかったのは事実でございます。ではどういうことが旨く行かなかったかと言えば、御承知の通りドイツ特にハンブルグの商人は、支那市場が引っ繰り返された。そうでなくてもドイツは輸出為替がなくて困って居るのですから、随ってハンブルグ、ライプチッヒを中心とするドイツの一般の空気というものは、日本に非常に反感を持って居るのが事実であります。第二は御承知の通りフォン・ゼークトの後を受けてフォン・ファルケンハウゼンが、今日は新聞の上に既に出て居りますが、漢口政府の軍事顧問となり、幕僚40名を引き連れて、南京の国民政府軍を助けたのであります。
 そういうようなことの上に、廣田(弘毅)内閣以来方々のお役所で出て参りました革新政策という革新政策は多かれ少なかれ皆ドイツの法律の影響を受けて居る。ドイツはこういう事情でこうしなければならない必要があって、こういう政策を取り、こういう法律が出たのだ。こういう筋が分かって、日本はこういう事情で、こういう必要があるから、こういう政策を取り、こういう法律を作るのだというならばよいのでありますが、ただドイツの法律の翻訳を持って来て、革新政策だ、何々政策だとやられる事があるとなると、体質の違う人に同じ処方箋で薬を盛るというようなことにも相成るのであります。そこでどうも向こうの実情を知らなければならん。肚を訊かなければ具合が悪い。その力も知り度い。向こうが、お前が来るなら、来いと云い、それではこちらも行こうというようになりました。…。随って向こうで聞いた話はどの程度まで信用出来るか、皆さんにご判断願いたいとも思います。
 
 

ヒットラー時代のナチス・ドイツの経済政策

ナチス思想に漲る日本精神
 
 …幹部の心得書の中に何を書いてあるかと言うと、「決して権力を以て大衆を威圧する勿れ」と書いてある。…私は貧民窟を歩いて見たが、労働者と青年は絶対にヒットラー支持であります。ヒットラーは支持されて指導する。ヒットラーを支持して指導される。デモクラシーでもなければ独裁でもない。強いて言えば、やはり日本の政治思想でなければ説明は出来ません。恐らく日本の真似だと思います。それは君民一如の思想です。
 
 …ナチスの幹部はよく日本を調べております。而もさっき申しました資本家も労働者も悉く生産階級である。人間は国の生産の為の値打ちを持っている。日本の昔の大御宝(おおみたから)の考えであります。所謂責任政治は、億兆一人としてその所を得ざれば悉く朕が罪なりという御聖旨を奉戴したものである。…この国民一如の立前というものは、日本の君民一如と全く相似たるものであると思うのであります。それを日本から持って来ながら、而もそれに現代科学の内容を織り込み、日本よりも早く日本精神から得たものを産業の組織、政治の組織に実現しておりまする点が、聊かご参考に相成るかとも心得まして、長時間のご清聴を煩わしました次第でございます。

 

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 日本に駐在し明治天皇のそば近くで日本精神を学んだハウスホーハー先生が、ドイツに戻って次世代の青年達を育てた、そしてヒットラーも生徒の一人だった。その証拠にヒットラーは大の親日家でした、これは紛れもない事実。。。😑😑😑

 

 
 

 

 
 

 


 

 

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