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”令和だよ、日本改造法案大綱、行ってみよう!”〔8-1〕現代語訳篇😅
やっと最終巻。。。しかし!!実は、この巻8が一番の難関でして、富士山8合目を越えて突如の急な上り坂をヘロヘロになりながら登っている感覚が。。😅😭 なので、休憩多し。。(笑)
それでは続きは、≪ 巻8 国家の権利 ≫からです!!⇩
巻8 国家の権利
≪徴兵制の維持≫
・現行の『徴兵制』を永久に維持する。これは、国際上で国家が生存・発達する為の国家の権利。
・『徴兵猶予一年間志願兵制度』等の『特権制度』を廃止する。
・『現役兵士』への俸給を給付する。
・兵営や軍艦内の生活に於いて、軍記章の階級以外での区別・差別を廃止する。
・現在・将来の領土内に於いて、異民族に対しては『義勇兵制度』を採用する。
注1) 支那の『傭兵』は、英米では『義勇兵』と呼ぶ。単に呼び名が違うだけでどちらも『雇用契約兵士』だが、この制度は彼等の国民精紳には適合している。例えば、アメリカなどは『社会契約説』を理想とする植民者達が契約・結合して建国した国だが、ではそもそもその“いびつな説”の発祥地は何処か?と問えば、それはイギリスだ。今でも自ら『ジョンブル・ソサエティー(友好協会)』を名乗るイギリス人は、『国家』を組合や会社と見做した上で立法の基礎を『社会契約説』に置く。だから、たとえ国防問題であっても組合と組合員の間で雇用契約を締結するが、その行為自体は彼等の建国精神や国家組織からすれば何の不思議もない。しかし、それをヴェルサイユ会議という世界会議の場に持ち出して、日本に対して『傭兵制度』を強制したアメリカとイギリス両国の迷妄さは、全く以て驚く外はない。日本という国は、建国の精神から現代まで一度たりとも国と国民が契約して組織した様な歴史を持たない。だから、日本国民の持つ国家観も、近代の新説である『社会有機体説(=国家は有機的不可分の一大家族)』を更に哲学的思索、及び宗教的信仰によって深遠に博大に体現し得た、古来からの一貫した信念というべきものだ。日本は、現代式の徴兵制度形式こそドイツ・フランスから学んだが、元から日本が有する『国民皆兵義務』の制度精神とは、上世・建国時代に発源して中世封建期間の休眠を経て、そして現代に復活を果たし、今、国民の大信念として漲溢しつつある。ヴェルサイユ会議に列席した日本の講和委員達は不思議なことに、日本とイギリス・アメリカの国民精神と国家組織の根本信念の相違を指摘もせず、日本国民の根底に流れる国家有機体の信仰について力説もせず、無知昏迷な欧米人委員らがカイザーリズム(欧州大戦前後ドイツの皇帝統治)に言及して日本の『国民皆兵主義』と混同したことに対して何の反論もしなかった。先の欧州大戦で、辛うじてドイツを防いだフランスが『徴兵制』だったことに対し、「それは軍国主義だぞ!」と糾弾した欧米人が会場内に一人でも居ただろうか?強大な軍備で弱国を併呑し蹂躙する者が『軍国主義』であって、『傭兵制』か『徴兵制』かの条件が『軍国主義』を決定する重要な要素ではない。それなのに、完璧な『軍国主義者』として微塵も疑う余地の無い少し前の陸上でのドイツ、現在の海上でのイギリスなどの国々が、全然臆することなく、彼等の侵略から『徴兵制』で祖国を守ろうとしている者に対して「この、軍国主義者め!」と大声で罵声を浴びせる。全く、何と最悪で醜態な姿だろうか。悪魔界から歓喜を持って選ばれた“嘘笛吹きのラッパ隊”の隊長、愚昧なる善人のウッドロー・ウィルソン輩が、先のヴェルサイユ会議で日本に向けて吹いた”悪魔ラッパ“の音色。あれは、将来に亘ってアメリカ史上空前の恥辱となるに間違いない。
注2) 『傭兵』と『徴兵』の優劣の議論など、全く以て意味が無く、イギリス・アメリカ両国はどうであろうとも、日本に於いて日本の建国精神と信念に従えば、傭兵は必ず『弱兵』になる。その理由から、日本は『徴兵制』を永久制度にするしかない。先の欧州大戦で、1対5の相撲で3人を倒したドイツは残りの2人に負けた。しかし、だからと云って、“ほらごらん、『徴兵制』だから弱かった、だから負けたんだ。”と速断など出来ないに決まっている。第一、ドイツを負かしたフランスとロシアは『徴兵制』だったし、イギリスとアメリカなどは海上封鎖で食料・軍需品を遮断して貢献しただけで、英米傭兵とドイツ徴兵は大戦中に直接対決した場面は無かった。戦っていないのだから、両兵士の優劣性を証明する方法がないにも拘らず、奇しくも世間が “知られざる”イギリス傭兵の“優位性と栄光”を知ることが出来たのは、彼の有名な退却将軍のヘイグ元帥が、近年稀にみる文豪に転身して発表した『撤退報告文』の“お蔭”だったことを思い出す。
注3) 欧米人は、『徴兵』を『理想と信仰』から論じるが、日本はそれを『国家の権利』と主張する。そのことで、欧米人は日本へ容赦ない非難を浴びせてくるが、冷静に考えれば、政治・経済・恋愛等の自由には常に“他者の社会的生活を侵害しない範囲”という条件が付けられるのに、思想・信仰の自由は制限無しとは変ではないか? 自由恋愛の所でも詳説した様に、思想や信仰の中に存在する無価値なものや有害なものに接した時は、一段高い所から判断することが必要とされる。例えば、生殖器の形像「リンガム」を頸に掛け、寡婦が薪を抱いて夫に殉死し天国へ行くのを信仰するインド人、諸神と動物の生殖行為の彫像図書を礼拝し、極楽行きを信仰するチベット人やモンゴル人、離婚は地獄の火に焼かれると信仰するキリスト教徒の旧教一派等々、もし彼等が、「これは信仰」なので「信仰には自由がある!」と言ったとて、それらを安易に認めることは到底出来ない。思想・信仰とは、民族の精神や世界の思想と戦い、勝利して初めてその真価が認められるものだ。戦いの途上で退却、降伏しながら「信仰の自由を!」と叫ぶ様な信仰など、十字架に貼り付けになりながら最後に「我は勝てり」と言葉を残して国家・世界上に自由を建設した信仰に比べれば、全く何の価値もない。キリスト教-小乗(仏教)的な解釈を採用する彼等ですら、新約聖書の黙示録で、『天国の戦い』前のイエスが、「私は、地に平和ではなく剣を撃ち下ろす為に来た」と宣言して邪悪な都市(ローマ)を天火で焼き尽くした一面も載せるのに、平和主義のクエーカー宗徒は聖書の「殺す勿れ」一項だけを抜き取り、それだけを盲守して『兵役の忌避』を主な教えとしている。そうかと思えば、同じ一神教であるイスラム教などは、マホメットが「剣を撃ち下ろしに来た」と明言して「殺すべし」と教えている。同じ地球上に、コーランと剣を共に示して「殺すべし!」という信仰と、「殺す勿れ」という信仰が両立できると云うが、その根拠がたった7つのアルファベット文字『liberty(自由)』なのだ、これは全くおとぎ話の世界ではないか。この7文字だけを唯一の頼りに、相反する信仰を併存・両立させようとする軽薄で浅薄な考えが本当に『信仰』と呼べるのか。ハッキリ言って、クエーカー宗徒の信仰は、天理教より遙かに価値が低いながらも、『リンガム』礼拝よりは僅かに上回っている程度だが、それならなぜ、彼等の信仰は大変に強固であり犧牲さえ厭わないのか?と反論があるだろう。それは、更に低級な信仰にだって同様の事例が沢山あり、又そんな頑迷者が多い為にイスラム教は「殺すべし」の教えで対応せざるを得ないというのがその答えだ。全智にして全能なる神は、古くは『ノアの洪水』で大殺戮を決行し、サラエボの銃声(1914,6,28)からヴェルサイユ条約締結(1919,6,28)までの丁度ぴったりの5年間で欧州に屍山を作り、血で河を染めた。全知全能の神があの欧州の殺戮を止められなかったのだ、神を信じて「殺す勿れ」を盲信するクエーカー宗徒の信仰にはどうしたって矛盾が生じるし、イエス・キリスト本人でさえ弟子に諭す時は、「我が神」と「貴方の神」の様に明確に神を自・他・彼・此・大・小・高・級で差別していた。20世紀の今、厳重に封印されていたインド文明が、その伝承の宝庫である日本民族の大乗的信仰によって花開こうとしている。今こそ、日本国民の信仰する神が、クエーカー宗徒の神へ『阿弥陀の利剣』を撃つべき時であり、その時に、生死の悩みを天に求める様な極めて低級で小乗的な教徒らがその信仰を以て対抗しようなど、龍の乗物へカマキリの鎌を降り下ろすつもりか。信仰さえこの状態で、況んや学者・文化人らが軽々しく口にする『思想もどき』になおさら自由など必要ない。将来、クエーカー宗の様な浅薄な非戦主義を輸入して『徴兵忌避』を企む者達に対しては、断乎として確実に最も重い刑罰を与えるべきだ。
注4) 『徴兵猶予一年志願兵』等に関して: 10年一貫の新しい国民教育制度を実施すれば、現行の教育制度で生じる様な教育格差は解消するため、これら特別措置を維持する理由は消滅する。前註で説明した通り、新制度で訓練を受けた兵士は今の少尉級の実力に匹敵するので、これは結局は現役兵役の年限短縮を意味するから、どんな専門的使命を持った高学歴者でも最低一年から一年半の陸・海両軍の軍隊的な訓練経験が、その心身の基礎を養い、自己の使命を大成させる準備期間になるだろう。現行の徴兵猶予制度は、外国被れの即席学士による所謂『ローズ物』であり、官庁・大企業への宣伝目的で作り上げた現行の悪しき経済組織そのものだ。殆ど全てのひよこ学者は、高等職業紹介所に過ぎない『大学』を『特権階級の入り口』だと勘違いし、腹の底では単に『徴兵忌避』の言い訳にしようと云うのが偽りない本心だろう。この様な特権を見過ごしては、将来必ず国家の根本秩序が乱れてしまう。故に、制度に利面も多しとの声があっても、絶対に『徴兵忌避』の例外は認められない。
注5) 国家が現役兵士へ俸給を給付することは国家の当然の義務であり、傭兵に支払う俸給とは全然意味が異なる。国民の義務だからと云え、父母妻子の扶養を負う男子を労働の場から去らせて何の賠償もしないのは国家の権利乱用であり、この権利乱用をしたロシアでは、近年労兵会(=労働者・兵士同盟会)による蹶起が起こった。強い軍隊を維持したい立場の軍事当局側に、問題の根源的解決方法を提唱出来る者が居らず、加えて全ての国民が道徳心を仕舞い込んで国民の義務を忘却すれば、肝心の軍務に付いている兵士達の憤恨が爆発し、労働者が兵士達と結び付くことは必然的に起こり得る。ボリシェヴィキ(ロシア共産党)がこれを防ごうとして、ボリシェヴィキ(大衆派主義)の義務を忘却すれば本末転倒であり、その負担に国庫が耐えられないと云う言い訳は通らない。現に、イギリス・アメリカは多大な報酬を支払って傭兵を雇い戦争をしているのは、国家の生産的各省の收入に十分余裕がある証拠。
注6) 兵営内や軍艦内に於ける将校と兵卒の物質的生活の平等は、何の説明も要らない位に当然のこと。古来、将軍の食事は兵卒の後と言われて来たのに、食欲を満たすだけの単なる飲食行為に階級差別を設けて普段から部下に反感を養成して置き、更にその態度を戦場にも持ち込んで改めないとは、軍隊組織の大精神を完全に無視した有り得ない所業だ。敗戦、亡国の憂き目に遭った国・軍隊の上級将士は、兵卒の飢餓・粗食状態にはまるっきり無関心だがしかし、自分一人はテーブルにずらっと御馳走を並べ美酒で乾杯していたこと、この明白な史実は古今東西に只の一人の例外が居ない。反対に、皇帝に墮落する以前のナポレオン軍の強さ、連勝に次ぐ連勝の精神的原因は、先頭に在った彼の物質的無欲さと兵卒と大差ない質素な生活スタイルが平等の理解を示していたからであり、直近に日本にもナポレオン軍の様な軍隊が必要不可欠だ。日露戦役の時の乃木希典将軍は、軍事作戦上に看過できない大錯誤があり、それ故にあの様な大きな犠牲を起こしたにも拘らず、旅順包囲軍から寛大に扱われた理由の一つは、自ら兵卒と同じ弁当を食べ、平等の義務を履行していたからだった。兵卒らを死に追いやりながら、彼等から許される将軍が、日本の最も近い将来には何百何千人居ても足りなくなるが、まさか、兵卒と同じ食事では戦えないと文句を言うならば、その食事を摂っている兵卒だって戦う力がある筈がない。この様に唾棄すべきおぞましい考え方が上級将士らに蔓延した国を待つ運命は、革命か亡国へ一直線だろう。宮廷権力を牛耳る佞臣と腐敗将校が、ロシアの労兵会を生んだ。皮肉なことに、彼等は意図せずも日本へレーニン宣伝を導いた革命の内応者だったと云われる日が来るかも知れぬ。家庭など、軍隊外での生活の物質的差別があるのは、兵卒一人一人に異なる経済状況に応じた生活の自由があると同じこと。
北一輝先生の『日本改造法案大綱』一番初めの起草日は1919(大正8年)ということなので、その頃の時代背景が分かって非常に興味深いですね。。。
しかし、当時のアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの事は大嫌いだったようですねぇ、、ワタシも嫌いです。(笑)
あれこそ二枚舌って云う見本のよう。。。
途中『ローズ物』という箇所がありますが、多分植民地主義のイギリス政治家セシル・ローズのことかなと思いますが、その頃の世相では、日本の学会などで引用が流行っていたとかなのか、確信はなく。。
ところで、ワタシはこの巻8を読んで、”ああー、そうか!これだ!!”と合点がいった本があります。それは、宮沢賢治作の『注文の多い料理店』です。学生の頃は一体何を比喩しているのかいまいち理解してませんでしたが、ああ、これだったのか~と。(笑)
海軍を減らせ(服をぬげ)とか、傭兵制にしろ(体を洗え)とか、平和第一(クリームを塗れ)とか、兵役回避(横たわれ)とか、戦争反対(目をつぶって)とか。
日本を弱体化して喰っち(占領)まえ!という、クエーカー宗の陰謀だったのか。。(笑)
あれ、あれれ、、今の日本の霞が関も丸裸で全身クリームだらけのオジサン達ばっかりですネ?😅😅
しかし、この巻8を読むと、日本へ弱体化を無理強いする素振りを見せつつ、国内から『弱体化はまっぴら、自己防衛の権利がある!』の声が高まった所を見定めて、待ってましたの『国家総動員法』だった可能性がひしひしと伝わります、、
ワタシのこの記事⇒『兵庫県知事問題』で読み解く、『226事件』に仕組まれた『2元対立』の正体とは…😶、
案外、トンデモ話ではない様な気がしませんか?😊😊😊