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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(1)

 私が先日出版した『ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 | 何 祐子 |本 | 通販 | Amazon』は、初版発売日が8月15日でしたが、本文修正をしたために今の最短では9月14日出荷になるようです。再び少し延びる可能性もありますが、多分1,2週間かと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。😌

 本の内容は、「ベトナム近代史・ベトナムの抗仏運動史・祖国解放革命史」でして、実は、大東亜戦争敗戦間際の日本とも非常に密接な関係があります。
 戦後から今まで、日本人には殆ど知られて来なかった、或いは歪んだ形で伝えられて来たベトナム抗仏闘争・革命運動の真実。その運動を率いた人物である、旧ベトナム王国の皇子クオンデ殿下の自伝を此の度日本語に翻訳し、本解説に加えて前後のベトナム近代史の執筆にも挑戦しました。
 現代の日本では、中々馴染みの薄いベトナム史が背景になりますので、本文中で使用されている用語や時代背景説明を本の中に都度注釈という形で入れられれば良かったのですが、本に書き込むには量が多すぎて出来ませんでした。そのため、その本を読んで下さった方への補足として、本に登場する人物の詳細や、時代背景等々をぽつぽつここに書き込んで置きますので、是非ご参考になさって頂ければ幸いです。
 

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『越南(ベトナム, Việt Nam)王国』の名称ですが、これはいつから?というと、 → 唐代(618‐907)には、「安南都護府」と呼ばれるなどしたが、『時代を経て南北統一を成し遂げた嘉隆(ザー・ロン, Gia Long)帝が、1802年「越南国」を名乗ったのが国名の始まり。』です。歴史上、「南越国」「大越国」等と色々な国名で呼ばれて来たこの土地を南北再統一し、建国した時につけた国名です。

『1954年ジュネーブ会議』は、
  → 1954年4月から7月までスイス・ジュネーブで開かれた国際会議。インドシナ戦争休戦に関する協定(ジュネーブ協定)が成立しました。

『国民投票』
  → ベトナム初の国民投票が、1955年10月23日に南ベトナムで行われました。総選挙の結果97%(一説には98.2%)という高得票率を得て元朝廷政府国務大臣であり、抗仏志士の一人だった呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム, Ngô Đình Diệm)氏が初代大統領に選出されました。

『東遊運動』
  → ベトナム語では『ドンズー, Đông Du』運動という。日露戦争に勝利した日本から学ぼうと、フランスの圧政に苦しむベトナムから続々と若者が日本へ留学して来た。当時ベトナム国内で自発的に斡旋機関もでき民間に広がっていった愛国出洋運動。

『大東亜戦争最中の日本軍による『ベトナム平和進駐(1940‐45)』
  → 1940年9月、仏領インドシナと日本が共同防衛協定を締結。日本は英米側の援蒋(=蒋介石)ルート遮断の為、1万5千兵をベトナム北部に派遣しました。

『東京飯田橋の病院』
  → 日本医科大学第一附属病院です。1951年4月6日午前5時5分、ベトナム阮(グエン)王朝の皇子クオン・デ殿下はここでお亡くなりになったと伝えられています。 

『文郎国』
  → ベトナム語では『ヴァン・ラン, Văn lang』と読みますが、『越南史 略』の記述によりますと、ホン・バン)氏代の国号≪文郎≫時代は紀元前2897-258年』とあります。場所は中国の南、ベトナム北部地方辺りでしょうか。ベトナム史ではこれを国の始まり・黎明期としています。

『北属』 
  → ベトナム史では、支那大陸征服王朝と朝貢関係にあり冊封を受けた服属期間を『北属期』と言っています。

『呉朝』
  → 上記の『文郎』の次の為政者『安陽王(アンズォンブン)』の『甌貂(アウ・ラック)』国(BC257-207)の末に北部から始皇帝の『秦』に攻められて、ここから『北属期』が始まります。要するにBC207年ですね。秦によって土地を分割されてから『唐』代まで『北属期』が続きます。『唐』滅亡のAD907から中国大陸は『五季(胡)時代』に入りますが、『白藤江の戦い』で南漢軍を撃退した『呉權(ゴ・クエン)』が、皇帝を名乗り『呉朝』を開きました。『北属』を脱して、ここからを『自主時代』と呼んでいます。AD939年の頃です。

『チャンパ王国』
  → 現在のベトナム中部地域にあった国。19世紀後半に編纂された『欽定越史』では、東漢の時代、既にこの民族に関する記述(102年)がありマレー系でインド文化を持った民だと伝えています。17世紀頃に国は滅亡したと伝えられています。

『クメール王国』
  → チャンパ王国と同じくベトナム中南部にあった国で、古くは真臘国と呼ばれます。17世紀からのベトナム人の南進により領地を後退して行き、現在のカンボジア王国がその末裔に当ります。

『西山(タイソン)3兄弟』
 → 時代は黎(レ)皇朝の下に北部鄭(チン)氏と南部阮(グエン)氏両領主の   『南北朝時代』です。1765年の南朝武王(阮福闊 グエン・フック・コアット)死亡後、クイニョン西山邑の『阮岳(ニャック)・侶(ル)・惠(フエ)の3兄弟』が勢力を広げます。3兄弟の父の名は『胡丕福(ホ・ヒ・フック)』。母方の性『阮(グエン)』 を名乗った3兄弟は、1788年に『女真族・清国』の侵攻を撃退した末弟の『阮惠(グエン・フエ)』が、鄭氏・阮氏を追い出し、黎皇朝は滅亡、自身で『光忠(クアン・チュン)帝』を名乗りました。これが、『西山阮(タイソン・グエン)朝』(1788-1802)です。現在のホーチミン市1区のど真ん中に『グエン(ホ)・フエ通り』がありますね・・。『クアン・チュン通り』はTSN国際空港の近くにありますね。

『阮福暎(グエン・フック・アイン)』
  → 南部阮一族の阮福暎は、一時隣国タイに逃れて後に西山阮氏を滅ぼして南北再統一を果たしました。1802年皇帝に即位して、国号は『越南』。    これが『世祖高皇帝-嘉隆(ザー・ロン)帝』(在位1802-1819)です。

『広南地方の會安(ホイアン)』
  →「旧日本人町の跡に日本橋が残る御朱印時代に発展した港町。石碑には日本人がこの橋を造り、アンナン国王がこれに「来遠橋」の名を与えたことが記してある。また郊外には、日本平戸の谷彌治郎兵衛と、日本文賢具足君の二人の墓が残っている。」(ファン・ボイ・チャウ著『獄中記』より) 現在は、ベトナム中部のリゾート観光地として有名ですね。

『北朝の鄭(チン)氏』
  → 後黎(レ)朝(1532-1788)の時、黎家を助けて北部莫(マック)氏を追い出した鄭氏が実質的な領主として北部を支配していました。南部は阮(グエン)氏。要するに『後黎(レ)朝』=『南北朝時代』ですね。

ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note
本の登場人物・時代背景に関する補足説明(2)|何祐子|note



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