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チャン・チョン・キム著『 Một cơn gió bụi(一陣の埃風)』① 第1章 無為と静寂の日々/ 第2章 シンガポールへ

第1章    無為と静寂の日々

 
 植民地中学と師範学校、北圻の清荏(タイン・チャ)小学校で教員を務め、その後ハノイの南(ナム)小学校で監督長を務めるなど、31年間教育界に身を置いた後で1942年に漸く定年退職した私は、これでやっと老後の余生を静かに過ごせるとほっとしていた。何故なら、この時代は国に艱難多く、世間は卑劣と偏見で溢れており、心から楽しみを感じることなど無い日々で、蔵書に埋もれて本の虫になる時間だけが唯一の気分転換だったのだ。多難の上に息苦しさを感じる空気が醸成された社会の中で、悔しさを噛み殺していた人間が持つ心境だったのだろう。それでも幸いなことに天は我々人間へ、適宜対応して安らぎを見出す能力を与えてくれたお蔭で、どんな境遇に遭っても何れはやがて忘れ去りどんな状況にも耐えられるようになる。 
 癸未(1943)年は、月が陰り暴風が吹き荒れ、全地球に戦砲の音が響き渡った。インドシナ全土は日本軍に占領され、戦禍は日毎に広がっていた。ありとあらゆる方面に於いて困窮と艱難な状況に置かれたベトナム人は、70年間に亘る保護統治下で国が抑圧され衰弱してしまったことに憤り、誰もがこの機会に悲願である独立を勝ち取りたいと期待を持つようになっていた。 
 私もベトナム人の一人だ。だから、他の愛国者達と同じ様に、心が突き動かされない訳がない。だが、困難極まる生活で人心も離散してしまい、多くの者が愛国の名を利用して私利を謀ろうと蠢めく様子に辟易していた私は、特定の政党や派閥に加わることはせず、如何なる政治的行動も取っていなかった。日常やるべき仕事をやる以外は、空いた時間に親友と会って天下国家について語ることもあったが、ただ漠然とした想いで一日も早い祖国の解放を願っていた。 
 私は、フランス人に会った時は常に率直にこう言っていた。
 「この状況下に於いて、もしフランス人が事態を深く理解して我々を解放したならば、フランスが経済的に損害を被ることは殆ど無い。文化的、或いは実利的な面に於いては、一民族に対して大きな恩を施したという利を得るだろう。そうなればベトナム人はその恩を一生忘れず、喜んでフランスに協力する筈だが、それは今の様な世の中-欲望、憎しみ、愚かさに満ちた時代には絶対実現しない夢の話に過ぎない。依って人類は、今まで幾多の苦しみと痛みを耐えて来なければならなかったし、これから先も終わりは見えない。」
 
 フランス本国が戦争に巻き込まれている間も、フランス人のベトナム人に対する態度は微塵も変わらなかった。一方で日本人は、ベトナム人の愛国心につけ込み自分達の側へ着くよう勧誘していた。ベトナム人は日本の肚の内を見破れない訳ではなかったが、多くの人は、やっと巡ってきたこの機会に乗じて、長い間自分達を押し込め縛り付けていた狭い檻から新しい環境へ解放されたいという気持ちが念頭にあり、後で何か方法を考えればよいと考えていた。国内の知識人の大部分もその考えだったが、勢力不足で行動を起こせず、一部の愛国に燃える者達や名利に走る者らが日本に従っていた。
 
 日本は、元々東アジアの中の同文同化の一国だったが、後に西欧化し、狡猾な手段を使って帝国主義的の膨張を図り、先ず高麗と満州を征服して、次に中国やヨーロッパ列強に占領された東アジア諸国を侵略しようとした。彼らは、『同盟公辱』の口実と、『被圧迫民族の解放』を大義に掲げたが、実際には利権を独占しようとしていただけだ。そのため、日本が敷く政策は言行不一致で矛盾ばかりの、今日世界に横行する覇道の政策だった。人々を仁義的言辞で自分達の陣地へ引き込めば、その統治は容易になる。しかし、実態は単に利益の為だけであり、大義など何処にもなかった。 
 あの様な困難な状況の中では、私はただ黙って座っているしかなかった。しかし、自分は静かに座っていたいと思っても、周囲は決して静かにはしてくれなかった。あの会を立ち上げよう、と話に来た人間が帰ったと思ったら、別の人間が来てこの党を作ろうと言う。会だの党だのと言っても精神が欠けていては、そんな党や会を組織し増やせば増やす程、事態は混乱の度を増すだけで何の益が有るだろうか。だから私は、誰に対しても自分の意見を正直に返答するだけで誰にも同意しなかった。

第2章 シンガポール(昭南島)へ

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