日本・仏印の相似形-大川周明氏と陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏①一流学者の素顔 ~共産主義について~
大川周明氏とベトナムのチャン・チョン・キム氏、戦後は其々『右翼の巨頭』とか『日本軍の傀儡』など、意図的におどろおどろしいレッテルを張られ続けてますけど、お二人が遺した遺稿には、ユーモア・センスが溢れてて、その(多分)お茶目な本当のお人柄が垣間見えます。
大川周明氏が、1932年の5.15事件で禁固5年の刑の判決を受けて入獄した時のこと。⇩
特に三番目の、
「塵箱の、其処の藻屑に似たるかて、何ぞと問えばひじきと答えき」
。。最高ですよねぇ、、私は何度読んでも笑って噴き出してしまう。獄中にあってこのユーモア。。😂😂
チャン・チョン・キム氏も回顧録の中で、1949年末フランス軍から最終通告を受けたベト・ミン政府側の奇襲作戦をこんな風に表現してます。⇩
『負けたら退避してゲリラ戦と焼土戦を展開する作戦』
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名付けて、必殺!! 住宅を焼き払って焼野原が残るだけ作戦!
😂😂😂
私のベトナム人の夫や友人達もですが、ベトナム人はこういう冗談大好きです。(笑)
そして大川周明氏は、豊多摩刑務所から松沢病院に収監中、不思議な力の御加護が度々あったと書いてますが⇩
キム氏も、1945年8月に日本敗戦で内閣は解散、バオ・ダイ帝も退位した後、流浪の暮らしを送り経済的に困難な中で再会した友人が有りました。⇩
周明氏も、「松沢病院の病室は、書斎としてまことに申し分なく、そこで私は多年の宿願であった古蘭和訳を成就したことは、叙上の通りであり、そのために私は常に私を加護して下さる見えざる力に篤い感謝を捧げた」とも書いてます。
さて、キム氏は当時のフランス留学組のエリートで、大川周明氏も高校・大学時代に欧米思想、カント、ヘーゲル、シュライエル・マッハなどからインド哲学へ没頭したそうですが、最終的にはお二人共、自国史を深く知って目覚めた歩みがこれまたよく似ているなと、これも私が思う所です。⇩
チャン・チョン・キム氏の編によるベトナム歴史本の金字塔『越南史略』(1920)の序文にも、こんな文章があります。⇩
それでもキム氏は、自国の子孫に向けて序文の最後をこう締めくくっています。⇩
そして、大川周明氏も。
またお二人共に、人生に於ける富や名声についてはこの様に書いてます。⇩
最後に、お二人が自分の人生を振り返ってのお言葉がこちらです。⇩
あの全世界の激動の時代に、アジア植民地解放という信じられない程の重責を担って真に険しく厳しい道程を歩んだに間違いないお二人がお二人とも、最後は殆ど同じことを、最高の言葉を、私達へ残してくれてました。。😊😊😊