中国〈広東・広西〉とベトナム〈広南〉について
ベトナムの広南とは、クアン・ナム(Quảng Nam )省のことです。場所はここです、中部の丁度真ん中辺り。⇩
中国の広東(→越語読みはクアン・ドン)省・広西(→越語読みはクアン・タイ)省は、この辺りですね、広西省がベトナム北部国境に接しています。お隣は雲南(→越語読みはヴァン・ナム)省です。⇩ (両方共見やすい地図がネットで見つからなくてすみません。。。)
日本もそうですけど、昔の人々の健脚であれば山間部を山越えしての往来、或いは舟での往来はさして難しくないと思いますので、地元の人たちからすれば国境云々の政治的な話は抜きにして、いわゆる昔馴染みのお隣さんという感覚かと思います。
私は以前、中国のこととか歴史とか殆ど知りませんでしたので、縁あってベトナムに住むようになってからベトナム史、特に仏印時代の抗仏史関連の本を読むようになって、「はて、なんでこんなに〈広東〉〈広西〉が頻繁に登場するのかな?」と興味を持ちました。
例えば、ベトナム国の皇子で日本に亡命していたクオン・デ候の自伝「クオン・デ 革命の生涯」→ 宜しければこちらご参照下さい。。本の登場人物・時代背景に関する補足説明(8)-ベトナム王国皇子 クオン・デ候のこと|何祐子|note の中でも、1909年に国外退去となり、門司港を出港して中国大陸に渡ったクオン・デ候一行は、香港に立ち寄りますが、
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「我々の香港連絡事務所は西環盤公園のすぐ傍にあります。」と、連絡事務所の存在に言及しています。広州へ移動すると、そこでは『周師女史』という義侠心の篤い中国人寡婦の御厚意で自宅に数か月寄宿し、他のベトナム運動家たちも大変お世話になったと述懐しています。東遊(ドン・ズー)運動留学生が日本政府の解散命令を受けた時にも、祖国に戻らずに香港や広州に渡り、現地ベトナム革命拠点に留まり活動を続けた人が多いです。
潘佩珠も、1911年10月の武昌革命(辛亥革命)後、袁世凱総統の解散命令を待っていた広東・広西駐留軍隊に対し、ベトナム蜂起への援助依頼をしたりしています。いつも、ベトナム革命運動家が〈広東〉〈広西〉、そして〈広州〉を頼る記述が書籍の中に頻繁に出て来ます。
『獄中記』の中でも、潘佩珠はこう書いています。⇩
「筆談の間、この意を告げたところが、梁啓超がいうのに、「貴国の独立計画には3大目がある。一は貴国内の実力、二はわが中国両広〔広東・広西〕の援助、三は日本の援助」
横浜に居た梁啓超を訪ねた時に受けたアドバイスは、『革命成就』の3種の神器、為らぬ、『3重要目』=ベトナム+広東・広西+日本。要するに、言い換えれば、この3者が手を組めば鬼に金棒、負ける気がしない!(笑)(余談ですが、私も本の翻訳では本阮(グエン)家のLiên Quốc(リエン・クオック)氏、明郷人の末裔 Nhan Phương(ニャン・フーン)さんに本当にお世話になりました。。。〈日+明+越〉…正に最強トリオだ、と何度も実感しました。)
また、『獄中記』にはこんな記述もあります⇩
「私が広東に行った時は、岑春煊(しん・しゅん・けん)が両広の総督でありました。私は一書を投じて、粤越(えつえつ)〔広東・広西両省とベトナム〕が唇歯の関係にあること、及び累朝主藩にあること、及び累朝主藩であった誼を叙して、一臂の援助を求めた」
科挙文科合格者であった潘佩珠は、早々に日本を退去以後は、やはり言葉が理解出来る中国大陸で活動を続けました。しかし、それ以外の理由でも歴史的な経緯から、この2つの地域を兄弟の様に考えていたのかと私は感じています。(多分、当時の知識レベルでは、もしかしてそれは『常識』だったのかも知れませんが。。。)
特に、ベトナムと両広(広東・広西)の関係を「粤越(えつえつ)〔広東・広西両省とベトナム〕が唇歯の関係にある」とまで表現しています。
ですので、この、『粤越(えつえつ)』とそれに纏わる歴史的経緯を見て行きたいと思います。歴史と言えば、勿論陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の『越南史略』ですね。ベトナム語の歴史本『越南史略』|何祐子|note陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏『越南史略(Việt Nam Sử Lược)』の序文をご紹介します。|何祐子|noteこちらから、ベトナム史の上古時代部分を下記に簡潔に要約して見たいと思います⇩
「ベトナム上古時代の起こりは、支那古代の伝説の神農三代目の帝明帝が、南方巡行中に5嶺山(湖南省)で仙女と結婚したことが起源。」
「帝明帝と仙女の子供が『禄続(ロク・トック)』でこれが『淫陽王』になり『赤鬼国』を建国。」
「淫陽王が君主の娘『龍女(ロン・ヌ)』と結婚して産まれた子供が『貉龍君(ラック・ロン・クアン)』。これが、第2代目赤鬼国国王。」
「赤鬼国の位置は、大体『北を洞庭湖、西を巴蜀(四川省)、東を南海、南をチャンパ辺』」
「後に赤鬼国は分裂して『百粤(バック・ヴェト)』と呼ばれます。現在でも湖広地方(中国湖南省、広東省と広西省)を百粤地方と呼ぶ。」
「『貉龍君(ラック・ロン・クアン)』の子供が『雄王(フン・ブォン)』です。この雄王が『文郎(ヴァン・ラン)国』を建てる。」
「18代目雄王(フン・ブォン)の時に、支那の蜀王件に攻められて、文郎国は亡びます。蜀王件が『甌駱(オウ・ラック)国』を建てて『安陽王(アン・ズゥン・ブォン)』を名乗る。」
「『甌駱(オウ・ラック)国』は、『百粤征服令』を出した秦の始皇帝に降伏します(BC214)。このとき「百粤・甌駱」は、「南海(広東)、桂林(広西)、象郡(北越)」に分割され秦の支配下に入った。」
⇧以上、ベトナム史の上古時代をなるべく簡潔に纏めてみましたが、ここから判るように、要するに、「百粤・甌駱」=「南海(広東)、桂林(広西)、象郡(北越)」は、元々一つなんですね。これと、先日投稿しましたこちら→ ベトナム古代史あれこれ|何祐子|note の記事にも、戦前の日本の安南人起源研究を記事にしましたので宜しければお読みになって下さい。
また、⇧上の謎の『赤鬼国』については、いつか一考を記事に纏めたいと思います。『赤鬼』→ 日本にも居てますねぇ、日本昔話に頻繁に登場します、山羊みたいな角が生えた、赤ら顔をした金髪の巻き毛で目も体も大きい山に住む人達ですね。。。パンツは確か虎柄がお気に入り。(笑)
話を続けたいと思います。⇩
要するに、『粤越(えつえつ)〔広東・広西両省とベトナム〕が唇歯の関係」は、元々一つだったのを、秦の始皇帝が分割したのでした。通りで、阮王朝ベトナム王国がフランスに征服され保護下に入って以後、沢山の救国志士が出奔し、主に香港、広東、広州、広西に拠点を作りました。その活発な活動を常に援助してくれた中国人革命家や市井の人々の存在は、歴史経緯を知れば妙に納得がいきます。
1905年に初めて日本の地を踏んだ潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)ら(同行者は、曾抜虎(タン・バッ・ホー)、鄧子敬(ダン・トゥ・キン)の2人)に、日本の政界人、犬養毅と大隈重信を紹介してくれたのも中国人の梁啓超でした。そして、犬養毅は孫文を紹介、その孫文も、、、というように、どんどんと〈同文同種〉の連携が広がって行きました。その結実が結局堅固に張り巡らされた仏印包囲網を突破する背景になり、最終的には西洋植民地支配を打倒し、他国による奴隷搾取を表面上は一旦終結させることが出来ました。確かに、〈日・明・越〉の奇跡の連携プレーが決め手となりました。
そして、果て?と現代を見まわしてみますと、もう奇跡の連携など跡形も無く消え去り、元々無かったかのようになってますネ?今ではお互い「嫌」に「反」で溢れていますネ。。寂しいですネ。。
もし、今再び、今度は日本に先に、他民族による侵略とか支配とか経済搾取とか降りかかったら、日本人は今度どうしたらいいのか。孤独ですねぇ。。。
TVとかたまに見ますと、「ベトナムは反中だから、日本は対中国政策としてベトナムと連携して、云々」と、語られているのを見ます。こ、これは怖い。。。背筋が凍り冷や汗が。。。べ、ベトナム古代史を知らんのかなぁ。。(やっぱりマイナーですから。。。笑笑)
国同士の問題は、外交で何とかならないのでしょうかね。外交レベルで解決できそうな問題を解決せずにほったらかしにして置いて、民間人レベルで頻繁に事件、トラブルが起こり、普通の民間人がお互いに離反していがみ合っても、民間人同士損ばかりでいい事など一つもなさそうです。
『私達民間人の損』だと認識してみて、果て?では物事は何でもコインの表裏の様に『誰かの損は、誰かの得』と考えた時、この現象の裏側では実際、一体どこのだれが安心して、枕高くして惰眠をし、楽しい思いをするのかな。。
今日は、田舎の主婦のつぶやきでした。。。。