本の登場人物・時代背景に関する補足説明(2)
『キリスト教徒布教活動』
→ 「ヨーロッパ人のキリスト教布教活動の始まりについては、 『欽定越史』に記述が見られる。黎王朝の黎荘宗(レ・チャン・トン)帝時代の元和元年(1533)、イネク(Ineku)という名の西洋人が南真(ナムチャン)県 (現在のナムディン省ナムチュック県)と交水(ザオトゥイ)県の各村で布教活動を開始した。」(『越南史略』より)
『フランス人宣教師』
→ 名をピニオード・ド・ベエーヌ(Pierre Pigneau de Behaine, eveque d’Adran)、耶蘇(やそ)教=キリストのフランス人宣教師。コンロン島(=コンダオ島)に逃れていた阮福暎の西山阮氏征伐を助けた。その功績から『百多禄(バダロク)』の名を受けた。「…なかでも有名な政僧はフランスの覇権を確立するために劃紀的な功績を持つアドラン司教ピニオード・ド・ベエーヌであって、彼こそ英国のクライヴ、ラッフルズ等と比肩すべきアジア分割の元凶である。」(安南民族運動史概略P.12より)
『ダナン港に着岸したフランス船』
→ 1822年 戦艦クレオパトラ(Cleopatre)号
1825年 テティス(Thetis)号
『ゲアン省出身の阮徳厚(グエン・ドック・ハウ)』
→ 内海三八郎著の『潘佩珠伝』(1999)-潘佩珠の自伝『自判』P.34に、阮徳厚に関する記述があります。
「クイニョンで義人阮徳厚(グエン・ドック・ハウ)がフランスに捕えられ、 ビンディンの奥、蕃地に近い山の牢屋に連行されたと聞いて、急いで同地に 向かった。途中、フーカット県庁のある町に着いた時、フランス兵に率いられた数名の土民兵が、衰弱し切っている阮を押しやるようにして連行するのを行く手に見た。呆然と立ちすくんだ潘(佩珠)の目から熱い涙がとめどなく流れ出た。」
当時留学帰りで学も才もある義人らは、こうして『フランスに抵抗した罪」で『フランス側に雇われた同国人』の手により捕縛され処刑されて行きました。
『黎(レ)家の後胤を名乗る党』
→ ベトナム史の中で最も長かった王朝は『黎(レ)朝』です。 『前黎朝(981-1009)』と『後黎朝(1427-1527、1532-1788)』に分かれます。合計で370年間くらいありますが、後黎朝期はほぼ『南北朝時代』だったことを考えますと、実際に単独で長期政権を続けた『李(リ)朝(1010-1225)』も、長期王朝に挙げることができると思います。やはり長く続いた王朝には、その分だけ官吏一族郎党や宮廷貴族・侍従ら、お抱え商人・宮大工等など、恩恵を受けた人々が沢山いた訳です。現代でも日本の政治家などが血眼になって選挙に血道を上げ頭を下げ廻るのも『利権が欲しい』或いは『守りたい』からに外ならず、同じ様に、『黎朝は滅んだよ、次は阮朝だよ』などと簡単に行く訳はありません。新王朝で『利権』の恩恵からあぶれた人々が、不遇な境遇に不満を持ち『黎朝の後胤』等の『大義名分』を掲げ て屡々反乱を起こしていたのでしょう。
『太平天国軍』
→ 中国近代史の中で有名な『洪秀全(こう・しゅうぜん)』による『太平天国の乱』(1851)。ここで言う『太平天国軍』は傭兵軍団のことを指しています。当時中国は阿片戦争など混沌とした社会情勢の中にあって、洪秀全に率いられたキリスト教信者らが清朝に対して反乱を起こして南京を占領し『太平天国』という独立国家を建てました。(1851‐1864) スローガンは『滅満興漢』。この乱に参加した傭兵軍団の中では、黒旗軍の劉永福(りゅう・えいふく)将軍が有名ですね。黒や黄色の旗を目印にした武装軍団は、陸続きのベトナム北部には頻繁に出没します。ベトナム近代史の中にもその名が度々登場するプロの戦闘集団でした。
『1856年 フランスからの使者』
→ フランス政府からの抗議国書を携えた使者の名は、レヒュール・ド・ビルシュルアーク(Leheur de VillesurArc)です。
『ベトナム王朝政府は対応に慌てるのみ』
→ この頃の政府対応や国内状況を、『越南史略』の中で著・編者の チャン・チョン・キム氏はこう書き残しています。当時のベトナム学識者の大変興味深い分析ですので、長いですが引用します。
「西洋人宣教師達は、ベトナム国の法律を犯す事を恐れずに領内で精力的に活動を続け、キリスト教に入信した我国民達は、教理の考え方の相違から互いに諍いが絶えなくなった。そのため、これを禁ずるお触れは殆ど意味をなさず、朝廷政権によるキリスト教の取り締まりは、日に日に激しくなっていった。もし、ヨーロッパ人の目的が単に貿易だけであったならば、ベトナムも当然古来からの礼節に則りこれを厳禁とすることはなかったであろう。しかし宗教の「崇信」概念は、皆己の崇信が正しいと思い込み、譲り合うことなく勢力を作り互いに牽制し合うようになる。このことが、その後の我国が物事を見るときに右左もなく慎重に判断せずに、西洋各国と均衡を図ることを避けて、結果国へ大きな戦乱を招いた一因ともなった。 また、最も難しい政治舵取りが必要とされた嗣徳帝の時代に、商売に門扉を開いてこれを開明民治化の機会と捉えずに、高官達は旧式の習慣に固執して、自国民へも西洋人伝教者へも弾圧を続けた。最終的に、フランスが我が国に対し武力 による報復攻撃を仕掛けたのはそのためである。」
*人間の幸福や平和を追求するはずの宗教が、なぜ争い合い殺し合うようになるのか。その根底に「崇信概念」があり、外交均衡を欠いて他国との戦乱を招いた一因だと冷静に分析しているのが、私には大変興味深く感じました。
『ユージェニー皇后』
→ スペインの名門貴族家の出身。1853年フランス皇帝・ナポレオン3世と結婚し皇后となりました。熱心なカトリック信者でした。
『ルーアン大聖堂』
→ カトリック教会の大聖堂。別名ノートルダム大聖堂。1544年に完成したフランス・ゴシック様式の代表的な大聖堂。
本の登場人物・時代背景に関する補足説明(3)|何祐子|note
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