東遊(ドン・ズー)ベトナム留学生に『お父さん』と慕われた柏原文太郎
「座の中に、柏原文太郎氏という日本の衆議院議員がいて、3人(犬養毅、大隈重信、梁啓超)と共に私の書いた筆談の文章に全て目を通した後でこう言ったのだった。
”誠に、こうして皆さんを目の前にしてはいるが、まるで古の英傑伝を読んでいるようです。何故か。それは、我が扶桑の国へ面会に来られたベトナム人の識者はあなた方が初めてですから”」 『自判』より
ベトナム人運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の自伝書『自判』には、清国保皇派の梁啓超から紹介された衆議院委員、柏原文太郎(かしわばら ぶんたろう)氏の事が書かれています。
私が初めてベトナムに行った1990年代の頃、知り合ったベトナム人に「Ông Bá-nguyên Văn-Thái-Lang(バ・グエン・バン・タイ・ラン氏)を知ってる?」 と屡々聞かれた記憶があります。当時はまだベトナム語も能くは解さず、また歴史など全然興味がなく😅、以前の記事『ベトナム史への興味のきっかけ』にも書きましたが、ぽかんとする私の反応を見て、本当に残念そうにガッカリする人々の顔を今でも鮮明に思い出せます。
この越漢語「Ông Bá-nguyên Văn-Thái-Lang」は日本語訳すると「柏-原 文-太-郎」。私は、クオン・デ候自伝の翻訳作業中にこのお名前を発見した時に、「ああ、あの頃聞かれた名前はこれだ。。」と合点が行き、同時に当時(1990年頃)のベトナムでは、民間人の間で非常に有名且つ尊敬を集めていた日本人の一人だったのかと改めて認識したのです。
柏原文太郎氏は、ベトナム抗仏史関連書には必ずと言っていいほど登場します。
「明治2年千葉県成田町に生まれ、同人社、東京専門学校卒業後、育英事業に従い、東亜商業学校、清華学校、東亜同文書院、目白中学校を設立、衆議院議員にも4度当選し、昭和11年に没した教育家であるが、彼のベトナム留学生に対する愛情は非常なものであった。」
長岡・川本編『ベトナム亡国史 他 解説」より
「…千葉県香取町の富豪の長男。東京専門学校(早稲田大学)を出て、当時は東京同文書院の副院長、東亜商業学校の校長だった。この人が潘佩珠と相談しながらベトナム留学生を各学校に振り分け、留学生のために奔走して、旅費や学費を集め、当局の取り調べには適当に応対した。」
後藤均平著『日本のなかのベトナム』より
日本側の勧めに応じて、1906年にクオン・デ候と数名の学生が来日すると、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は犬養毅に一書を送り入学先の斡旋を依頼しました。
「…その後は犬養の代理、柏原文太郎代議士が関係者の間を奔走、斡旋してくれたので、ベトナム人留学生の入学問題はわずか10日余りで無事解決、潘を初めとしてこの日の来るのを待ちわびていた少年達をいたく喜ばせた。」 内海三八郎著『潘佩珠伝』より
けれど、喜びもつかの間、フランスの猛烈な妨害作戦が開始されました。国許からの送金が絶たれたベトナム留学生は一気に困窮し、ベトナム国内では中部地方で『抗租税事件』、北部地方で『投毒事件(=ハノイフランス軍営の食事に毒が混入した事件)』が連続で発生しました。フランスは、これら事件の首謀者を『在外ベトナム人の独立運動によるもの』と決めつけて、『日仏条約』を楯に在日本ベトナム留学生の取り締まりを要求したのです。その結果、日本は1908年10月頃、東亜同文会に対し『ベトナム人留学生の解散命令』を出しました。
この時フランスは、留学生の国許の両親を逮捕し手紙を書かせて帰国を促す策を取った為、留学生の殆どが帰国してしまいました。クオン・デ候の自伝にも、この時日本に代わる留学生の受け入れ先を探しにタイへ渡った経緯が書いてあります。
「…優秀な人材の育成に集注して取り組むべしと決意を新たにしたそんな時、日本での活動を停止せねばならなくなったのです。当然、日本に代わる別の人材育成拠点を探す必要があり、私はその為に泰(タイ)へ移ることを考えました。」 『クオン・デ 革命の生涯』より
しかし、やはりタイでは腰を据えた人材育成は難しいと判断して再度日本へ戻ったクオン・デ候は、今度は早稲田大学に入学します。クオン・デ候以外に、「その頃の東京には、陳有功(チャン・フゥ・コン)君らベトナム人留学生8名だけが柏原文太郎氏の商業学校に残るのみだった」と書いてありますので、この商業学校というのは、前述の「東亜商業学校」で間違いないと思います。
しかし結局、翌年2月頃には潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)とクオン・デ候それぞれに『退去命令』が届いたのです。
「畿外候(=クオン・デ候のこと)は24時間以内、私(=ファン・ボイ・チャウ)は1週間以内に出国せよと命令が下ったため、私は中国かタイへ移ろうと考えた。」 『自判』より
この時日本当局に呼び出された柏原文太郎氏が、ベトナム留学生について語ったという内容が、当局の古い記録に残されています。
「…仏国政府が賦課する重税は、仏印国民に非情の悪感情を惹起せしめ、怨嗟の声巷に満ちて、之がため、人心離散し、政府に服従するは僅かに政府の役人のみ。正しく近き将来に於いて、内乱の起こるを免れざるべし。然るに一方、米国は亜細亜大陸に手を延ばさんとし、香港を足溜まりの場所となさんとしたるに、英国との交渉纏まらず、遂に目的を達する能わざりしものなれば…」
この1909年頃既に、アメリカがフランス本国に内乱を起こして仏領インドシナを奪おうと画策してるぞ、ときちんと認識していた当時の日本政治家はまだ優秀だなぁ、、と思いませんか。。。😅😅
「…安南は素より有利の地、米国安南を握るの日は、日本の不利は夥しきものあり。今を於いて之が計を廻らさざるを得ざるべきに、然るに、ここに寒心すべきことあり。それは折角日本に親附せんとする安南人をして、日本を厭わしめ、却って心を米国に寄するに至らしむること、之なり。」
『ベトナム亡国史 他 解説』より
折角親日感情を持って日本に来た外国人を、日本は西洋諸国の顔色を窺い国益も顧みず、その場凌ぎで情け容赦なく追い出すような所業は、返って将来の『反日分子』を産み出す結果に繋がり、仮想敵国(アメリカ)を利するだけだ、と言っています。。。うーむ、本当その通りです。。😵💫😵💫😵💫
一方クオン・デ候は、自伝によれば、
「…私は既に東京を離れていました。日本政府と何ら揉め事を起こす意図は毛頭なく、神戸から船で秘かに日本を離れるつもりで、警察が訪ねて来る前に党員の陳有力(チャン・フゥ・ルック)と共に東京を出発していたのです。」 『クオン・デ 革命の生涯』より
この時の「クオン・デ逃避行」は、戦後日本側当局に残された記録などを頼りに様々な書物の中で物々しい憶測が書かれました。しかし、自伝の中でクオン・デ候が語った実際は、至って楽観的な雰囲気です。
「これでは、すんなりと船に乗船させてはもらえまい。加えて今こんな状況で日本国外に出たら、それこそ危険極まりないだろう。取敢えず東京に戻って別の方法を考えるに越したことはない。そう決めて、陳有力を神戸のホテルに残し、私は東京に戻ることにしたのです。」
日本を出た途端、即座に捕縛しようとフランスが手ぐすね引いて待っているのに、何処に行くにも日本当局の尾行が付いて来る。。。。これではフランスに、『クオン・デ候は、ここにいますよ!』と知らせているだけだ、そう判断したクオン・デ候は、一旦東京に戻ったのです。
そうして、単身東京に着いたクオン・デ候は、すぐさま柏原文太郎氏に電報を送ります。
「東京に着き、早稲田大学近くの鄧子敏(ダン・トゥ・マン)と阮超(グエン・シウ) =阮泰抜(グエン・タイ・バッ)の家に顔を見せると、驚いて一様に一体何があったのかと問います。彼らへ私の考えを説明して、即刻柏原氏へ助けを請う旨連絡をすると、午後5時に面会できることになりました。
(中略) 柏原氏は、もし強制退去命令が警察に届いてなければ救済できたかも知れないが、 警視庁が執行命令を出した後ではもうどうすることも出来ない、とおっしゃいます。 そういった事情ならば、もう何も抗う必要もなく、ただ3日間だけ時間が欲しいと伝えました。」
そして、警視庁が外務省へ電話で問い合わせた結果、期限は翌日の午後2時迄、随行人は阮超と陳有力の2人。柏原文太郎氏が外務省に掛け合ってくれた旅費千円は、半分を他同志へと鄧子敏へ預け、残り半分は、万一道中はぐれても各自手元にお金があるようにと3人で分けたそうです。そしてもう一つ、柏原文太郎氏は或るものをクオン・デ候に贈りました。
「柏原氏は、旅費以外に拳銃を3丁購入し、一丁は私に、2丁は随行員2人に各々渡しながらこう諭したのです。
”日本を離れた後、不運にもフランスに捕まることがあれば、この拳銃は御身を後世の汚名からお守りしましょう。決して屈辱に甘んじなさいますな。”
そして、翌日午後2時に警察の車が迎えに来て私と阮超を駅まで送ってくれ、(中略)上海行き船『伊代丸』に乗船したのです。」
話の前後を整理すれば、結局フランスの要求は『クオン・デ候の国外退去』であり、その目的は『日本の港を出たなら治外法権以てクオン・デ候を逮捕』ですが、、興味深いのは当時の日本当局の律儀さでして💦。『国外退去』をしっかりと完遂し見極めようと、彼方此方に連絡して尾行者を配置、ホテルや汽車に手配、先回り。。。😅😅 これでは日本人が自発的にフランス密偵の働きをしているようなもの。。。
想像するに、西洋人から見る日本人とは、本当に面白い思考回路の持ち主なのかも知れません。。😅😅😅
日本当局が大々的に『クオン・デ候日本退去!!」を騒ぎ立て、外務省は無情にも延期を拒否しました。クオン・デ候は、この条件下で日本を出る腹を括り、柏原文太郎氏も、これが極めて危険な状況だと理解した。だから、クオン・デ候が敵の捕縛に掛かり惨めな姿を晒すより、立派な最期を遂げられるようにと拳銃を贈ったことは、当時では珍しい考え方では無かったでしょう。
門司港を出港して上海に上陸したクオン・デ候一行は、柏原文太郎氏が依頼した在上海外務省や現地日本商社の奮闘あり、現地ベトナム人同志の手助けありで、フランスの捕縛から逃れることが出来ました。その後も、クオンデ候の持ち前の強運と迅速な行動決定力のお蔭でしょうか、柏原文太郎氏から貰った拳銃は出番がなく、ずっと保管されたままでした。
この拳銃が、その後にフランスに寝返って潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)捕縛を密某した密偵の潘伯玉(ファン・バ・ゴック)を暗殺した傘英(タン・アイン)という青年に渡された拳銃です。
以上、1990年代頃までベトナムで沢山の人に感謝されていた日本人、「Ông Bá-nguyên Văn-Thái-Lang(バ・グエン・バン・タイ・ラン氏)=柏-原 文-太-郎氏』を掘り起こしてみました。
今のベトナムでももう、日本の義人、柏原文太郎氏を知る世代がどんどん少なくなりつつある中、また一つ、草葉の陰のベトナム爺さん達との約束を果たせたような気持ちです。。。😊😊😊
しかし、何故当時のベトナム人らがそんなにも柏原文太郎氏に深い印象を受けていたのだろうか、、と興味を持っていましたが、ある日古い本の中にこんな文章を見つけました。多分、当時多くの人がこの⇩事に感謝してたんじゃないかな。。。😭
「この時、柏原文太郎は数名の年少学生を自宅に引き取って、自分の子のようにいつくしんだ。ベトナム人青年らは、柏原夫妻を「お父さん」「お母さん」と呼んだという」 『東亜先覚志士記伝』より