見出し画像

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑱『年表・第三期(1905年~)・暹羅(シャム=タイ)農業で生活す/『聨亜芻言(リエン・ア・ソ・ゴン)』/ベトナム光復会の設立/ベトナム国旗/軍用票の発行』

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯

******************

暹羅(シャム=タイ)農業で生活す


 庚申(1910)年9月、広東を引き払ってタイへ行った。
 3度目のタイ、この時は伍子胥 (ご・ししょ)を習って彼の地で一農耕人になるつもりだった。降る雨で洗髪、風で梳髪、足は汚れ手は泥だらけの毎日を送るのだから、そんな農作業をも厭わない4、5人が私と同行した。
 
 その中で特に書き留めて置きたい人がいる。 名を二芳(ハイ・フオン)氏。無学者で文字を全く知らなかったが、生来男気が凄まじく強い男だった。幼時フランス人に連れられ香港へ行き、西洋料理を学んだ。腕前が良く、 ≪仏国洋行≫の調理長として高給で雇われていたが、未婚の独身男で、香港の同国人の面倒をよく見ていた。香港で≪越南商団≫を設立した時は、彼からの寄付が最も多く、 毎月きっちり5元が届き、一度も欠けたことが無かった。我らが語る革命話へ手を叩いて小躍りし、“いつかは厨房仕事の日々から抜け出し、一兵卒となって戦ってみたいものだ” との想いを漏らしていた。香港で働いていた10人程の同国人は、ハイ・フォン氏の愛国心発揚を見て感激したものだった。
 私が香港へ行ってタイ行きを誘った時、彼は即刻これに同意して、更に自身で熱心に同業者を勧誘して3人を加えた。彼らは、後日ダン・トゥ・キン氏と共に伴忱(バン・シン)での開墾事業に勢を出し、早朝から夜中、雨の日も熱暑の日も歓んで毎日働いていた。以前の西洋レストランのコック服にぶかぶかの西洋靴を履いていた時に比べると別人の様であり、自己の利益など丸っきり顧みない、真の義に生きた仁士だった。

 9月下旬にタイ国首都バンコックに着いた我々は、望み通り一生涯をタイで過ごすつもりで、≪十年生養 十年教訓≫の志を立てた。祖国を出奔してからこれまで為し得たのは取るに足らぬ小事のみだったと、この時に振り返って後悔をし、己を見つめ直す時期になった。
 タイに着いた時には、ダン・ゴ・シン君やダン・トゥ・キン君、ビン・ロン君らが土地の賃貸交渉を終えるなど準備は殆ど整っていたので、私は一昨年お会いした老親王に謁見した。 老親王へ我が党の現況を詳しく説明を申し上げ、タイの土地賃貸と居住許可を得て我が党勢を養いたいので、タイ政府下での保護を願い出た。これに、老親王は大変喜んで、皇弟の陸軍少将を呼び、我らの件を一任した。それから、少将の自邸へ案内されて行くと、 少将夫人ご臨席の上で立派な宴席、夫人は親しく食事を勧めてくれる程の歓待ぶりであり、ご夫妻揃ってこの様に約束をしてくれた。
1) 新規タイに来る者には、初月分の食費として一人5バーツを支給する。それから先は自分で農業によって稼ぎ出すこと。
2) 農地に関しては、タイ政府から技師を派遣する。伴忱(バン・シン)は山岳農地だが、 傍に大河もあり水利の便良く、土地も肥沃。首都バンコックから徒歩で4日強あるので今までは未開墾の森林。それ故に鉄道が未開通だから、結果フランス密偵は追って来ない。
3) 農業用地は既に準備万端、その他農機具や種籾等は全て支給する。耕作に牛や水牛が必要なら、周辺の村々から借りられる。王家から口を利けば、国民は喜んで貸し出すだろう。
4) 日本で解散令を受けたベトナム人学生は、皆が苦学に耐えた人材だ。この地で農業労働を学ぶなど訳ない筈だ。

 私自身、生まれてから一度も鍬を握ったことは無かったが、ボロ服を纏い破れ笠を被って野菜を摘み根菜を拾うなど、中々手際が良かった。この時のタイで、愛国歌三篇を創作した。大声張り上げ水牛を追い、愛国歌を喚きながら水田を進む我らへ、脇畔道を通るタイ人が立ち止まって拍手喝采を送り、≪クオン・ズオン(=タイでベトナム人を指す)≫の歌声に聴き入る。奇観ではあるが、妙な親しみが湧くのだった。

ここから先は

9,259字

¥ 100

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?