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30年前のベトナム・ダナンの想い出と私の備忘録😅
ベトナム中部の都市『ダ・ナン(Đà Nẵng)』は、海岸に中々複雑な波が出るスポットがあってベトナム戦争頃の米軍兵士の休暇先として人気があり、束の間の休息日にサーフィンを楽しむ若い米兵の姿が多く見えたそうです。
(上⇧に張り付けたのは、昭和16年発行の満鉄東亜経済調査局刊叢書・改訂仏領印度支那篇の附録地図。地図上に見るTAURANE(ツーラン、都朗)がダナンの昔の呼び名ですね。)
ベトナム・ダナン在住そんちゃー君さんの風景写真が、撮影技術の高さもあり素晴らしく綺麗でおすすめ。⇒「ダナンの景色|そんちゃー君 (note.com)」
これを見ていて、思い出したのが、、、
先夏引っ越しの際、若かりし頃に初めて学生旅行した時(約30年前)のダナン・ツーリズムのパンフレットが出て来ました。。。 ⇩
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手前に並ぶ車が多分旧ソビエト製っぽいのが、妙に懐かしい。。
そういえば、30年前に乘ったベトナム航空ハノイ発ホーチミン行の国内旅客機はロシアのアエロフロート製で、離陸後の軽食を食べようとした時に何となく視線を感じ天井を見上げると、ズレた天井材の隙間からゴ〇ブリ親子が顔を出してました。。
微笑ましい姿でしたがしかし、”この飛行機、乗って大丈夫だったんだろうか…”と、とっさに運を天に任せた私は当時まだ20代。。(笑)😅😅
これは、その頃のホイ・アン旧市街ですね。⇩
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アメリカによる経済制裁が解除してからの大・再開発により、現在市街地の様子は様変わりしましたが、当時はまだこんな感じで静寂が美しい古都。本当に時が止まったようでした。
そして、こちらが当時のハイ・バン峠です。⇩
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これらを30年ぶりに眺めてたら、毎度ながら私の一風変わった想い出をついでに思い出しました。(笑)😅😅
記憶も曖昧、且つそれらに纏わる情報ソースも現在は散在してしまってるので、かなり個人的な『ダナン想い出・備忘録』ですが、書き留めて置きたいと思います。
2000-02年頃、日本人個人投資家の通訳を引き受け、1,2カ月に一度中部都市ダナンに同行してました。
その方は船舶関連業でベトナム支店(FRP船製造、メンテナンス、観光業等)立ち上げが投資目的でしたが、実は学生時代に安保闘争などの学生運動に熱心で『べ平連(ベトナムに平和を市民連合)』にも所属してた過去があり、そういった残影の影響で『共産国家・ベトナム』に恋い焦がれていた方でした。😅
丁度ドイ・モイ政策の経済開放路線が明確になった頃でしたので、私たちが訪問すると若いベトナム社長さん達は実に喜んで迎えてくれました。それで熱心に投資話を向けて来ますが、肝心の日本人投資家の方は、
”アメリカ帝国主義を~、打ち破った~、ベトナム人民の~、労働者の~、世界革命の~、であるから我々は断固帝国主義に~、レーニンは~、マルクスは~、共産主義革命は~、、、云云かんぬん。。。”
こんな⇧演説が始まって延々と続くので、投資案件が纏まる訳が無く。。
それでも、当時まだベトナム人の親日色が濃かった頃は、みな終始笑顔を絶やさず真摯に対応してくれ、帰り際の社交辞令も忘れないですが、最後に必ず呼び止められて、”もうこの人連れて来ないでくれよ…”と耳打ちされました。それで、目と目が合うと、何となく意気投合出来たような気がしたものです。。。😅
さてある時のこと、当局推薦紹介による企業訪問以外に、自らの足で地場の合弁候補先を探したいとの投資家さんの希望があり、延々とダナン海岸道路を走り続けたことがあります。
その頃はまだタクシーが少なく、レンタカーは一日8時間で確か相場40ドル前後だったので、”どうせ払うなら走らにゃ損”、みたいな理由だったと思います。(笑)😅
レンタカーでのろのろ走りながら、船舶工場様の建物が目に入ると停車してアポなし訪問しました。あの頃まだベトナム全体がのんびりとして、且つ魔法の様な”親日”効果が全土に行き渡り、どこでも大歓迎を受けましたね。有難く、懐かしい最高の想い出。😊😊
結構走り続けて行くと、だんだんと道なき道を行く…というような場所で突如鉄製の扉が立ち塞がり、それ以上は行き止まりになってました。辺りに居た漁師さんに尋ねると、
”ああ、ここから先はアメリカの土地!!”
笑顔で、こうはっきり答えてくれました。
私が通訳すると、投資家の方は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になりました。理解に苦しむのは当然で、アメリカはベトナム戦争の憎い仇。反帝国主義戦争を戦い抜いた共産主義国ベトナムに、何故帝国主義アメリカの土地が??
どうせ誤訳だろう、と再度質問しましたが、漁師さんの返答は、”なんかよく解らんけど、でもアメリカの土地”。こちらが何度聞いても苦笑いを浮かべて、”戦争とか主義とか難しいことは解からんが、それでもここはずっと昔からアメリカの土地、それは事実”、と返答は変わらずでした。
さて、個人投資家さんはというと、この後この話には全く興味を示さず、話題にもしません。どうやら、ご自分の『べ平連の残影』に沿わなかった模様。。。(笑)😅
しかし逆に私はこの日以来、”ダナン=アメリカ”の印象が強くなって、そんなある日、2015年初頭にこんなニュースが目に入りました。⇩
「ダナン市長グエン・バ・タイン(Nguyễn Bá Thanh)、滞在中のアメリカで毒殺未遂」
確か、当時勤務していた日系企業オフィスでこんなネット記事を読んだ私は、”おお!!やっぱり『ダナン・アメリカ』だ!!”と非常な興味を持ち、新聞の追加情報を読み続けました。。(←変な人…😅)
その頃、初動のベトナム語新聞記事には明確に”毒殺未遂”と書いてあり、毒薬は”放射性物質”の可能性、ついでにどこかの新聞に2004年のこの事件⇩との類似性が提示してありました。⇩
「ウクライナ野党候補ビクトル・ユシチェンコ、投毒害で顔面が変形。親ロシア派陣営による陰謀を主張」
当時のベトナム語新聞には、使用された毒物が同じタイプの『放射性物質』の可能性が高い、と書いてあった記憶があります。そうでない限り、私が覚えている理由が無い。
それから、多分半年後位のある日、さらっと
「ベトナム全国の海軍施設を検査した結果、小型核燃料(ウラン系?)が3つ行方不明」
という記事がネット新聞に出てました。。。
”あれ??” と、もしかしてこれがあの2つの事件に繋がるのかと追加記事を期待してましたが、それ以来ベトナム海軍軍事施設からの紛失小型核燃料の追跡調査結果情報を全く見ません。
怖いのでこの話題は取敢えずスルーします。。。😅
さて、ここ⇧までが、私の『ダナン忘備録』ですが。。。
それで、今回10年ぶりに改めてネット検索したら。。。以前読んだ様な内容の新聞記事は簡単には出て来ない。
勘違いだったかな??と思ってあれこれ検索掛けたら、やっとヒットしました。例えば、この2015年1月6日付VN EXPRESS紙⇒「Ông Nguyễn Bá Thanh hoãn về nước vì thời tiết xấu - VnExpress」にやはり、
「滞在先のアメリカで倒れたダナン市長グエン・バ・タイン氏が1月8日に帰国予定。第一報『毒殺未遂の可能性』は偽情報。べ共党所属の医師は『化学物質、或いは毒物を使っての暗殺未遂は誤情報と明確に否定」
と書いてあるので、では確かに、アメリカ現地からの第一報は私の記憶通り、『アメリカで毒殺未遂に遭った可能性』だった模様です。
では、ウクライナのビクトル・ユシチェンコ氏って、ところで誰だつけ? と思って新たに調べたら、こんな方でした。⇩
「元銀行家。1993年から99年までウクライナ国立銀行理事長。
1999年ウクライナ首相、2002年野党『我らのウクライナ』結成。2004年、原因不明の病に倒れ顔面が痘瘡だらけに。この年のウクライナ大統領選があり、一度は敗北するがオレンジ革命を経て再投票の結果、2005年1月にウクライナ大統領に就任した。現夫人は再婚で、ウクライナ人の両親を持つアメリカ・シカゴ生まれのカテリーナ・ユシチェンコ夫人。元アメリカ国務省勤務。」
因みに2019年7月には、ウクライナの検事総局から「全資産凍結を裁判所に要請」されてたみたいです。。😅😅 世の中がコロナとかロシアのウクライナ侵攻ニュースばかりに突入する直前ですね。。。
現在ネット情報によると、ユシチェンコ氏の『毒殺未遂事件』も未だ謎が多いみたいです。当時ユシチェンコ陣営は、『親ロシア派の陰謀によるダイオキシン投毒被害』を訴え同情票を集めていたが、結局対立するヤヌコヴィッチ候補に破れ、しかし直後にオレンジ革命が起きたため再投票となって目出度く2005年からウクライナ大統領に就任したとのこと。
えーと、💦💦 ここまで⇧が、私の『ダナン記憶忘備録を補足するネット情報集め』ですが、これら関連性や事実に関しては私は全然判りません。
飽くまで、その当時この2つの関連性を指摘するベトナム語新聞を読んだなあ、という曖昧な記憶があるだけ。
あの当時、地元で熱狂的な支持を集めてたダナンの名物市長グエン・バ・タイン氏は、2014年中に『再生不良性貧血』という極めて珍しい病気を発症し、アメリカで治療を受けた。しかし、2015年1月滞在先のアメリカから飛行機で搬送されてダナンの病院へ直行し緊急医療が施されたそうですが、結局一カ月後の2月13日にそのまま病院でお亡くなりになりました。
私の夫(南部ベトナム人)によれば、”明るく誰とでも気軽に接してくれる庶民派で、ダナン都市再開発計画に伴う旧市街や繁華街の立ち退きなどの難しい案件も、彼の人柄を見込んで首を縦に振った地元民が多かった。彼が居なければ立ち退きは成功しなかった。都市開発は未だ上手く運んでいなかった筈だ”と言ってました。
そんな地元の人々にとって、将来の頼みの綱であり、弾ける笑顔に丸いフォルムの如何にも健康体といった風貌のグエン・バ・タイン氏の急病(奇病)&急死は、『約束手形が焦げ付いた』、正に『空手形を掴まされた』様な気持ちだっただろうなぁ、、と思います。。。😑😑😑🤐
ええーと、💦💦 纏めますと。。。
ベトナム戦争に敗北し1975年に撤退した筈のアメリカが、あの頃(2001年頃)もダナンに広大な土地を保有(?⇒ならばベトナム政府公認?)し続けて、ダナン都市再開発計画に伴う市内の重要地区に住む住民の立ち退き交渉で抜群な働きをしたダナン名物市長が突然の奇病に倒れ、翌年2015年アメリカで容態急変、帰国後一カ月後に死亡。💦💦 ←これは事実です。😅
それと当時のベトナム語新聞が、何故か?オレンジ革命でウクライナ大統領になったユシチェンコ氏の投毒事件との関連性を指摘してたのも、私の記憶によれば事実です。(もう過去記事は検索しても出て来ませんが。。)
こうして考えて見ると、先の記事「南北分断後の1960年代-南・ベトナム共和国で発生した”仏教徒弾圧”背景一考」にも書いたように、細々連綿とした不思議な『ベトナム-ウクライナ関係』が、意外な所で繋がっている印象を持ちますね。。。
しかしそれも当然かっ。😑
何と言っても、現在ベトナムでぶっちぎり独走態勢のナンバー・ワン複合投資デベロッパー『ビンコム・グループ』のオーナー、ファム・ニャット・ブォン氏が、越東欧蜜月時代のウクライナ留学組なのは有名な話だから。
もしかして、ビンコム・グループのダナンリゾート『ビンパール・ダナン』の位置は、案外20年前に地元漁民に聞いた『アメリカの土地』だったりして。。。もしそうなら、ウクライナ金融資本とアメリカ不動産資本がベトナム開発で簡単に繋がっちゃうのか…。
あくまで真実は判りませんがーー💦💦😅😅😅
更に深読みすれば、現在の日本政府が地政学的にも歴史的にも親和性薄いウクライナにあんなに肩入れする不思議な現象も、『ベトナム投資』の関連性で見れば案外不思議ではないのかも。。。😅😅
更についでに、元々2018年完工予定だったホーチミン市都市鉄道1号線投資案件は、未だに延期に延期を重ねてますが、この投資事業にじゃぶじゃぶ流れ続ける日本国民の血税は、日越政官界の懐を少々潤してのち一体どこへ消えているのかな??😑😑😑🤐🤐🤐🤐