クオン・デ候とファン・ボイ・チャウ-2人の記念写真?⇧?🤔?【其の一】
いつか必ず通らなければならない道。。。それが、この⇧『クオン・デ候とファン・ボイ・チャウ2人の写真』とされて来た不思議な記念写真の存在です。今日は、とうとうこれを取り上げます。😀😀😀
少し前、友人の紹介で在日越僑の御年輩のお二人と東京でお会いしました。お話を聞く中で、ずっと疑問に思っていた質問をぶつけてみました。。。⇩
「ところで、この写真(上⇧の写真)、、本当は誰なんですか??」
。。。2人は談笑をピタッと止めて、顔を見合わせて私の方へ向いて、
「…やっぱり、、、そうですよね。似てないですよね、私もずっと似てないと思ってたんです。」
おおーー、そうだ、似てない。この記念写真のクオン・デ候もファン・ボイ・チャウも、他の写真とは全く似てないと感じてたのは自分だけじゃなかった。。。😀😀😀 で、お二人曰く、
「…でも、これは日本で『クオン・デ候とファン・ボイ・チャウ2人の記念写真』としてもう長い間有名なんです。だから、私達もそうだと思って来た。ですが、実際の事は解からないのです。」
100年以上前の事を証明出来る人はもう居ません。しかし、出所のハッキリしたクオン・デ候とファン・ボイ・チャウの他の写真と、2人の自伝書内容から比較検討し、この『記念写真』は『赤の他人の記念写真』の可能性(多分高確率。。🤔🤔)を検証したいと思います。
先ず、出所のはっきりしているクオン・デ候の23歳の若かりし頃の写真がこちらです。⇩
これは大岩誠氏の『安南民族運動史概説』の中で、『明治39(1906)年5月、東京牛込区写真館にて撮影』と明記されて居り、多分あの当時の『東京牛込の写真館』を調べれば、詳しい場所も店名も判明すると思います。自伝に依れば、クオン・デ候は『1906年4月横浜に到着』と有り、新暦なら丁度5月頃だから到着直後に撮影されていることになります。自伝には、『(到着の)数日後に東京へ上京したが、(中略)真直ぐに大隈(重信)伯と犬養子爵、他要人との会見に向かいました。』と書いて有る。
ここではたと気が付くことがあります。。。
それは、密航して来たクオン・デ候が、確かな紹介状も無く、『どうも、こんにちは。安南皇族の者です。』と突然挨拶しに来た所で、当時は証明する術が無かったこと。だからその為に『皇族の朝服』を持参してたのではないでしょうか。それは見る人(犬養翁や大隈伯など)が見れば、即座に価値が分かった筈。そしてその時の流れで、今後の為にもと日本政界人御用達の『東京牛込の写真館』を紹介されそこで撮影した、どうもそんな経緯じゃないかと推察します。もし後々にクオン・デ候が暗殺されてしまったとしても、偽物が出て来ることを防ぐ目的もあったかも知れません。それら理由以外で入国直後にこの様な写真が撮影された背景(場所、動機、目的)を説明できない気がします。
そして、次がこれです。⇩
1940年頃に台湾で撮影された写真なので、クオン・デ候は57歳位です。歳は取りましたが、顔の輪郭や目と耳の位置関係は余り変わってない様に思います。そうなんです、ポイントは『耳の形』と『耳の位置』。説に依れば、変装や偽装は『耳』を見れば大概見破れるとのことなので、では耳を並べて見たいと思います。⇩
やはり一番左側の写真は、目と耳のポジションのバランスが他の2つと異なっています。目じりからラインを引っ張って行くと、耳の真ん中位に当たる。要するに、耳がかなり高い所にあることが解ります。右の2写真は、目じりのラインのやや下側に耳の上部があり、耳の形も、左側の写真は上側に尖り気味で耳たぶが少ない。右の2写真は丸いフォルムで耳たぶもふくよかです。
では次に、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)です。😀😀😀
出所のはっきりしている写真は、取敢えずこの3枚。⇩
写真②は、ワタシの翻訳本の表紙にも使用してます、1956年南ベトナムで出版された英明(アイン・ミン)書店出版の『自判』の説明による、『1925年上海で捕縛、ハノイへ移送直後』です。出生年1867年から計算すると、58歳。
写真①と③は、内海三八郎氏の『潘佩珠伝』の巻頭附録からですが、この写真について内海氏は、『はじめに』の中でこの様に説明しています。⇩
「…それから何年経ったか忘れていたが、或る日突然、思いがけない未知の呉成人(ゴ・タイン・ニャン)というユエ在住の人から小包みが届き、開けて見ると中から『潘佩珠自判』の写本上下2巻と、潘が晩年書いた『孔学燈』および大小型写真十数枚が出て来てビックリ仰天、夢かとばかり喜んだ。」
要するに、英明書館の責任者だったファン・ボイ・チャウの弟子の呉成人(ゴ・タイン・ニャン)氏から直接『自判』漢語版と共に写真が送られて来た。だから、この2つの写真はファン・ボイ・チャウ本人の可能性が極めて高いと思います。そして、
写真①は、「香港亡命初期、45歳」(1910年~)
写真③は、「フエに軟禁されていた頃」(1925~1940年)
この様に⇧注釈があるので撮影時期も大体特定できます。では、耳を並べてみたいと思います。⇩
えー、これは素人では判断が難しい。。専門家なら分析可能なんでしょうか、分かりません。取敢えず、一番左側の『2人の記念写真』の顔は左のこめかみ辺りに大きな黒子が見えますが、ファン・ボイ・チャウの顔面に特徴的な黒子があると書かれた文書はワタシは今の所読んだことがありません。
まあ、でも、、、問題は『2人の記念写真』とされている写真のファン・ボイ・チャウが、他の写真と全く似てないことです。😀😀
目鼻立ちとか鼻の下や唇の感じとか、、そして何と言っても髪を七三分けにしてポマードで撫で付け、髭も綺麗にそり落としこざっぱりし、タキシードで正装しちゃっている。。。これが、奇妙なんですよね。
ファン・ボイ・チャウは、自身の著書『天乎帝乎』の中で、
「われらが死なんとして死に得ず、活きんとして活きがたき苦境に陥ってから、既に60余年」
この様に当時の仏領インドシナ・ベトナムを表現し、祖国と同胞を奴隷から解放したい一心で、仏印政府が厳重に貼り廻らした密偵網を潜り抜け、命を懸けて漸く日本へ密航して来たのです。なのに、、
”日本に着いたよ~。さっ、取敢えず記念写真撮ろーー。”
人間の心って、そんなに簡単に切り替わるでしょうか??🤔🤔🤔😑
この疑問⇧を、2人の自伝文章を基に次記事で検証してみます。😀😀😀