”日仏印(フランス領インドシナ)交換教授”の1943年『東亜考古学』ベトナム・カンボジア特別講演
明治末の日本へ亡命し、1951年に東京の病院で薨去された旧ベトナム国皇子クオン・デ候の自伝『クオン・デ 革命の生涯』を、私が翻訳出版したのは去年の8月でした。(過去記事⇒「ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯」)
戦後日本では『クオン・デ』と聞いても、「😵💫??」と、全然聞いた事も無いという人が殆どです。
今から4年程前に奇縁に動かされ、現代日本に於いて『クオン・デ自伝』再出版を志した私も、当初は、名前は知って居るけど詳細は殆ど知らず…という状態でした。💦💦😅😅
23歳で日本へ亡命、戦前の日本軍部と密接な関係を持ち、最期は異国日本の地で薨去されたクオン・デ殿下の重要情報は、実は日本古書の中に眠って居ます。その為に、これだ!と思う古書に目を付けてはその中にひたすら「クオン・デ」の文字を探す日々を続けましたが、それでも、「クオン・デ」に関する情報は簡単には出てきません。
1945年以後、敗戦国・日本では勝者に不都合な史実が巧妙に隠蔽されて来たと云いますが、それにしても「クオン・デ(Cường Đế)」情報は少な過ぎる。。。そんな訳で、”当たるも八卦当たらぬも八卦”の精神で😅(笑)、目ぼしい古書を適当に手に取って行く中に、”あー、やっぱり全然違かったか…。”と、期待外れの本も少なく無く、そんな本の中の一つに京都・星野書店刊『文学博士梅原末治著 東亜考古学概観』という昭和22年(1947)発行の本がありました。
多分、”後で読もう…”とよけてあったか何かで、暫くしていざ手に取り表紙を捲って見た時は、”んんん??”と、正直悩みました。。。
まず表紙を捲ると『陸前宮戸島遺跡発見の合葬人骨』の写真。それと、『北九州に於ける甕棺例』の写真。次ぺージを捲ると、『朝鮮樂浪王光墓槨室断面図』。次の次頁は、『満州通溝五塊墳第十七號墳の壁書(天井)』等々…。この様に殆どが『日本・朝鮮・満州』の考古学遺跡に関するものだったからです。
”はて…、なんでこの本を読もうと思ったのだったかな??”と咄嗟に思い出せずにいましたが、本の『はしがき』を読んで漸く理由が判明しました。
「この小冊子に収録した諸編は、去る昭和17年12月に日仏印交換教授として印度支那(インドシナ)に出掛けた際に用意して行った講演の覚書である。」
『東亜考古学概観』より
覚書類に、「相当な補筆をし」、「解説に亙る部分」を他と調和する体裁に全部書き換えた上、各編終わりに≪註記≫≪補記≫を加えて、「より詳しい内容を知りたい人士の参考に資することにした」とあります。
この『日仏印交換教授』とは一体どんなものでしょうか?
「元々その任でない私が交換教授たることをお引請けしたに就いては、それが仏印側の希望に出て、日本学者の既往に於ける東亜考古学に関する業績を聴きたいと云う主旨に基づくことを確め得たが為であった。」
梅原先生がこう書いているように、「何故私が??仏領インドシナで講義を??」と不思議に思った訳です。まあ、広く浅く世界の最新の考古学研究を知りたいという仏印側の要求だということで、
「…講演の内容をばそれに即応して撰定、以て我が学界の進運を紹介すると共に、兼ねて貧しい自家の既往の考察の一部をも加えて覚書を作成した」
しかし、です。
「…幸にも遠東学院の人達はじめ、広く仏印側の期待に副うたと覚しく、前後8回(河内(ハノイ)5回、順化(ユエ)1回、西貢(サイゴン)1回、プノンペン1回)の講演にそれぞれ多くの熱心な聴衆を見出した」
しかも、こればかりではなく、
「…仏印の文教部から更に広く一般に普及させる為にそれの印行に就いて熱心な申し出を受けることになったのは私かに欣快とする所」
と、梅原先生は書いています。
こうして、仏印側の熱心な勧めを受けて冊子を準備していた梅原先生でしたが、
「終戦に伴う時局の急変なり、著者の疏懶などの為に遅延を重ねているうちに、(中略)星野敬一氏がはしなくも他界せられると云う不幸に遭い、(中略)令弟武雄氏と謀って、…兎も角も世に送り出すことに改めた。」
終戦後2年も経ってからの出版となった経緯を追記の中で説明されてます。
元々小冊子出版へ機会を与えられたことに対しては、
「…國際文化振興会の方々、殊に専務理事の黒田清伯爵、…朝倉季雄氏の御厚意と、仏印側で局に当られたシャルトン、セデス、ゴルベフ、シャバス、プラットネル、ギルミネ―諸氏の国境を越えた厚い友情を銘記せざるを得ない」
そして、
「…更に滞在中ユエでは安南国王に拝謁被仰付、三項龍星勲章を親授せられ、プノンペンでの講演では若いカンボジア国王の臨御を辱なうした光栄にも思い及ぶのである。」
この様⇧に、フランス人考古学教授たちの友情への感謝と、ベトナム、カンボジア両国で国賓級の歓待、勲章親授の感激が記されてます。(この⇧セデス氏とは、欧州の東南アジア史研究の権威、大御所ジョージ・セデス氏ですね。。。)😊😊
ですので、こうなるともう梅原先生が言うような「…仏印側の希望に出て、日本学者の既往に於ける東亜考古学に関する業績を聴きたい」とか、「…幸にも、…広く仏印側の期待に副うたと覚しく」という単純な話ではなく、『仏印遠東学院の教授たちの熱い熱いラブコール』があって、この年、昭和17年(1942)暮れにやっと実現した梅原先生の海外講演だったんじゃないかと私は想像します。。。
何故なら、この『遠東学院』とは、先の記事「江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)王朝頃のベトナム その③「南瓢記(なんぴょうき)」に書きました「BEFEO(=フランス領インドシナ時代の1898年に、サイゴンに開設された東洋学研究機関「極東学院(Ecole Francaise d‘Extreme-Orient )」」のことでして、実際、私達アジア人が想像するよりも遥か以前から、西洋人の彼らは、長い期間を掛けてアジアを深く研究して来ているのです。
この、昭和17年(1942)は、日本軍ドンダン・ランソン進攻(1940)・北部進駐、そして南部へ進駐した翌年ですので、先の記事「仏領インドシナにあった日本の旧高専校『南洋学院』のこと」からも判るように、フランスの『ヴィシー政府』と日本が友好関係になった為、”今がチャンス!”と、フランスの東南アジア史・考古学界の教授ら長年の念願、熱いラブコールが叶ったという流れではないかと推察します。。。
ところがですね、『東亜考古学概観』の目次は下記の様なものなのです。
2,日本の青銅器 -特に銅鐸に就いて-
3,朝鮮に於ける漢代遺跡の調査と其の業績
4,朝鮮上代遺跡の調査 -特に高句麗の壁書に就いて-
5,南満州に特に関東州の史前文物に関する新見解
6,河南省彰徳府外殷墟殷墓の発掘
などなど。図版は、『武蔵草花敷石住居跡』とか、『外蒙古ノイン・ウラ古墓出土刺繍文絹2種』など、北東アジアのものばかりです。東南アジアのものは全然ありません。
ですが、ベトナムにご興味ある方は『青銅器』で”ピーン”と来るかも知れません。そう、ベトナムにも『ドン・ソン(金属器)文化』と、有名な『ドンダン青銅鼓』がありますね。
ネット上、Wikipedia「ドンソン文化」には一応こんな説明が見られます。⇩
「ドンソン文化(ドンソンぶんか)は、ベトナム北部の紅河流域を中心に成立した東南アジア初期の金属器文化。
タインホア(清化)省のマー川(馬江)右岸のドンソン村に遺跡が存在する。遺跡は1920年代フランス極東学院の考古学者らによって発見され、特徴的な銅鼓が有名。」
銅鼓の起源は「紀元前5世紀頃に、中国の雲南西部で創出」後、「紀元前4世紀になってドンソン銅鼓が生産」された。「東南アジア(マレー半島、タイ、インドネシア)にも広く分布している」、と解説がついてます。
ここから判るように、1920年代北部ベトナムで青銅器(銅剣や銅鼓)を発掘した『フランス極東学院の考古学者』諸先生方が、発掘成果の更なる研究促進を求めてあの頃の「日本学者の既往に於ける東亜考古学に関する業績を聴きたい」と熱い希望を持っていたことは間違いないでしょう。。。
では、その肝心の『青銅鼓』の図柄とは、これです。⇩
一番外側の輪には、『魚』や『鳥』のようなもの。その下側の輪には『鳥』と『鹿』かな。。更に内側の輪には、『古代船』と『棺』に『籾搗き』しているような人がいます。そうすると、隣の『倉庫』風建物の中の丸い形は『米俵』???😅😅 なーんて、考古学素人の田舎主婦にはそんな風に見えます。(笑)でも、そう考えたら真ん中はどうしても『太陽』?と思え。。。Wikipediaにも、「青銅で作られた片面の太鼓は、主に雨乞いや祖先祭祀の際、精霊に働きかける目的で作られたとされる」とあり、要するに『祭禮』目的で作られた太鼓なら、これは、『太陽と雨、アメツチ(天地)の恵みを感謝しての祭禮』か。。。ええと、、もう、五穀豊穣を祈る日本全国の神社祭禮と同じじゃないですかね。。。?!😊😊
梅原先生の『東亜考古学概観』にも、仏印の銅鼓と日本で出土した古代の金属器との類似性を指摘するこんな記述があります。⇩
「我が国土から出土する古代の金属器で、早く奈良朝時代から、問題となっている銅鐸も、(中略)…私は支那戦国時代に於ける編鐘が一見他に類のないこの銅鐸の祖型をなすことに考え及ぶのである。
尤も右の銅鐸は祖型たる支那の編鐘に比べると違った趣が多い。この点で仏印の安南・東京(トンキン)地方に支那の青銅文化の波及した初期に作られた銅鼓に似通った所のあることが顧みられるのである。」
因みに紀元前5ー4世紀頃ですと、ベトナム史では『上古時代』に区分される『鴻龐(ホン・バン)時代(BC2879‐BC258)』、国名は『文郎(ヴァン・ラン)国』、王名は世襲『雄王(フン・ブォン)』です。
さて、ここで改めて『ベトナム人の起源』に言及です。。。
先の記事「ベトナム古代史あれこれ」でもご紹介した、ベトナム人歴史学者の陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏は、
「フランス人研究者によると、ベトナム人も泰人も、同じく西蔵(チベット)山岳地方から降りてきた民族だとある。ベトナム人は紅河に沿って東南方向へ下り、現在のベトナム国を建国した。泰人はメコン河を下りシャム国(現在のタイランド)と、ラオス側にそれぞれ国を建設していった。」
このように1921年初版の『越南史略』の中でフランス学者の説を掲載していました。
そして!! 我が『南満州鉄道株式会社(満鉄)』の『東亜経済調査局』発行の『南洋叢書 仏領印度支那篇』(1941)にも、
「人種的起源に就いては種々説あり明らかではないが、一般にモンゴール族が土着民と混血したものと云われている。」
戦前はどうやら、『ベトナム(安南)人(やタイ人など)の一部は北方から南下説』が有力のようです。ならば、フランス極東学院が『日本、朝鮮、満州』などでの日本考古学者の発掘調査成果に興味深々だったのは合点が行きます。
それから先、「じゃあ、そのチベット人やモンゴル人は?」とも学者先生なら考え続けた筈ですが、真横はロシア大陸、突っ切れば直ぐそこは彼等の住む欧州に繋がっちゃうわけです。😊😊
もしかしてそれで、フランス学者先生達は大変に喜び張り切って、日本へ熱いラブコールを送っていた…??のかも??。。。💦😅😅💦
しかしです。。。そういえば、当時の世界、特に西洋社会では優生学、選民思想、○○至上主義などなど…が、今より声高に叫ばれた時期とも云われます。そうならば中々微妙な問題。😅😅😅
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?