本の登場人物・時代背景に関する補足説明(9)
『手紙の往来や学費の送金などを手配する会社を密に設立』
→ 内海三八郎氏の『潘佩珠伝』にある、『越南商団公会』のことでしょうか。。。
『裴之潤(ブイ・チ・ニゥァン)』
→ 東遊運動の第一陣として日本渡航した南圻人。
『越南義烈史』
『振武学校』
→ 明治36年(1903年)7月、日本政府と清国公使との協定結果、参謀本部が東京市牛込区河田町に創立した学校。
『ヴェトナム亡国史』
『福島安正陸軍大将』
→ 信濃松本藩士出身。江戸でオランダ式兵法を学び、維新後後藤新平の知遇を得て、1871年司法省に入省。語学力に優れており、1887年ドイツ公使館武官、その後、参謀本部部長、関東提督、大正3年に陸軍大将となる。大正8年死去。
『梁立岩(ルオン・ラップ・ニャム=梁玉眷(ルオン・ゴック・クエン )』
→ 1905年17歳で日本へ渡航。学問明晰、後に広東に渡り陸軍測量学校に入学。南京、上海、北京(北京士官学校)で軍事を学んだが、最期は北部の太原(タイグエン)監獄を破獄し、フランス軍の砲弾で戦死した。享年28歳 『ヴェトナム亡国史』
『東京目白の東亜同文書院』
→ 1901年上海で東亜同文書院が設立され、この東京の文書院は、1902年に中国留学生のために設立された。後に目白に移り、目白中学校附属となるが大正時代に消滅した。
『ヴェトナム亡国史』
「東亜同文書院の会長は、貴族院の有力者、鍋島侯爵、学院長は細川侯爵、漢字は根津一、学院書記恒屋盛服という顔振れで、諸公は私財を投じて五教室を新たに設けてヴェトナム人留学生を全部収容してくれた。」とファン・ボイ・チャウは書き残している。
『潘佩珠伝』
『近衛篤麿侯爵』
→ 公武合体方針を取り、安政の大獄に連座して左大臣を辞した近衛忠煕公の孫。維新後、貴族院議長、枢密院顧問官を歴任。日露戦争後、日清同盟論を唱え明治31年東亜同文会を組織した。先の大戦中、3度首相を務めた近衛文麿の父。
『1908年頭頃から、フランスがベトナム本国からの送金を妨害」
→ 「フランス政府は巨額の費用を支出して売国奴を買収し、国内の密偵は国外留学生の数に倍するくらいで、わが党がひそかに運び出す金銭書信の道は、如何なる細道もことごとくこれを偵知して破壊し、父兄親族は逮捕されて獄中に呻吟し、悪探偵、凶巡査が国境に咆哮睥睨するという有様』 『獄中記』
『復国闘争』
→ ここでは、西山(タイソン)阮三兄弟に奪われた黎朝王位回復の為の戦いのことを指している。
『劉猶興(ル・ヨ・フン)』
→ 「別名『劉双子、劉文利』。東遊運動の第二陣として日本へ渡航。乂安省儀禄県の人。カトリック神父。1909年頃成城学校に在籍していた。」 『越南義烈史』
『柏原文太郎氏』
→ 明治2年千葉県成田生まれ。東京専門学校卒業。東亜商業学校、清華学校、東亜同文書院、目白中学校を設立。東遊運動の留学生が困窮に陥ると、数名を自宅に引き取り我が子の様に慈しんだ。ベトナム青年らは、柏原夫妻を「お父さん」「お母さん」と呼んだという。
『東亜先覚志士記伝柱間』
『商業学校』
→ 東亜商業学校のことでしょうか。。。
『自主管理機関を設立』
→ ベトナム公憲会のこと。経済、規律、交際、文書の四部を設けて、会長はクオン・デ候、潘佩珠は、総理兼監督に就任し、北部中部南部それぞれ代表3名の委員を置いた。 『潘佩珠伝』
『南圻抗税事件』
→ 『群民抗租事件』「1908年、租税と賦役の軽減を要求してヴェトナム各地に起こった示威運動。3月9日クアンナム省大緑県に始まり、3月末にはクアンガイ、ビンディンの各省に拡がって中部ヴェトナムは全く動乱化した。翌年三月ようやく鎮定した。」
『ヴェトナム亡国史』
『城下投毒事件』
→ 『仏国将卒毒殺事件』「1908年5月白馬寺に集結した同志結社が、フランス兵舎の料理に毒を投じて決起を策するも失敗。首謀者ら80名余りが死刑、流刑に処された。」 『越南義烈史』
『あらゆる手段を講じて妨害』
→ ヴェトナム国内でも、状勢は急に険悪になっていた。クアンナム省をはじめ、中圻の各省では事件が相次ぎ、抗仏運動家は続々逮捕されてプーロ・コンドル島に流された。ハノイでもこの前年(1908年)に東京義塾が閉鎖され、塾関係者の思想家たちが捕まっている。これによって、国内での東遊運動の一つの拠点が潰えた。」
『ヴェトナム亡国史 解説』
『1907年に締結された日仏協約』
→ 「1907年6月10日、パリにおいて、日本側栗野慎一郎駐仏大使、仏側ピション外相との間に締結された協約、日仏両国のアジア大陸、中でも清国に於ける相互の地位、並びに領土権を支持しあうことを約した。」
『獄中記』
『国際法上政治犯を引き渡す慣例がないとして引き渡しには同意せず』
→ 「第二次桂内閣は学生の解散には応じたが、クオン・デ、潘両者の追放は断乎として拒否した。これは犬養、福島等有力者の強い反対があったためだと言われている。」 『潘佩珠伝』
『神戸でホテルに到着』
→「神戸海岸通旅人宿海発盛(清国人経営)」か。
『ベトナム亡国史 解説』
『鶏聲茅店月(けいせい ぼう てんのつき) 人迹板橋霜(じんせき ばんきょうのしも)』
→ 意味は「鶏の声にせかされ 旅籠屋出れば 茅の屋根には月が残れども、板掛け橋の霜の上に 早くも人の跡が 見えたり」 唐末の詩人・温庭筠(おん・ていいん)の詩です。
『鄧子敏(ダン・トゥ・マン)』
→ 「1972年辛亥革命の機運に乗ってベトナム革命を成就しようと、広東に沢山の同志が結集して来た。この時、ベトナム光復会を再編成するが、この時の会執行部経済委員に彼の名前がある。その後、香港の秘密工場で爆弾と火薬のい製造をし、手の指を3本無くした、とある。
『潘佩珠伝』
『阮超(グエン・シウ)=阮泰抜(グエン・タイ・バッ)』
→ 「この時は成城学校の学生。」 『ヴェトナム亡国』 「その後は、広西陸軍幹部学童を卒業した。」 『潘佩珠伝』
「1907年に中部から無一文で香港に出て来た所で潘佩珠に会い、船賃を断って単身日本へやって来た。(後々の同志の寝返り裏切りに嫌気がさし)故郷フエに戻り、元の「阮豊胎(グエン・ホン・タイ)」に戻って王廷に出仕した、とある。」 『潘佩珠伝』 キリスト教徒。
『上海行き船「伊代丸」に乗船』
→ 11月1日 『ヴェトナム亡国史 解説』
『上海の日本外務省へ電報を打ち』
→ この時の上海日本総領事館総領事代理としてこの報を受け取ったであろう人が、戦後A級戦犯として指名された松岡洋祐だった。当時の外務省の記録にこの時のクオン・デ殿下上海上陸の情報が残されている。
本の登場人物・時代背景に関する補足説明(9)|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note