仏領インドシナにあった日本の旧高専校『南洋学院』のこと
近年ベトナムに駐在、或いはビジネス関係の日本人の方でも、『南洋学院』を知る人は多分殆どいませんよね。。。
私が初めてベトナムに移り住んだ1990年代頃は、現地にまだ元大南(ダイ・ナム)公司の社員の方や、元日本軍で敗戦後日本へ帰らずベトナムに残留した強者の先輩方がご存命でした。。。😅ですので、私も外地校『南洋学院』の名は聞いていたものの、詳細は知りませんでした。幸い、『南洋学院』の第一期生、福島出身の亀山哲三氏がご著書『南洋学院』を遺して下さり、ここから詳細を知ることができますので少し纏めてみます。
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日本軍の『仏印平和進駐と、そして南部進駐の直後、フランスと交渉中だった『日本の外地校設立に、(仏印)総督より承認を得た』と、現地から豊田外相へ送られた電報の日付が昭和16年9月21日。翌年の7月、学校の掲示板にこのような張り紙が張ってあったそうです。
「*外務・文部両省共管の南洋学院を仏領印度支那(インドシナ)の西貢(サイゴン)市に開設する。
*修業年限は3年、公費によって南方開発の指導的人材を要請する。」
これに、試験科目、試験場所、願書〆切…等々の詳細が書かれてありました。亀山氏は、「始業前の東亜経済科の教室はこの話題で湧き立ち、」と述懐してます。この学院の経営に当たるのが、大正4年創立『南洋協会』でして、『南洋学院設立趣意書』はこのような内容だったそうです。
「…わが対南経済発展の第一線に活躍すべき人材を南方の現地に於いて養成する事業である。…外務省を初めとし関係諸官庁のご指導により…、第一線に活躍すべき優秀なる人材養成のため、現地教育機関として南洋学院を仏領インドシナのサイゴンに開設し…。…外務、文部両省の指導援助の下に当協会がこの経営の任に当たるものである。…我が国が南方に開設した最初の、しかも今日唯一の専門学校である…、…仏領インドシナのサイゴン-ショロン合併市に在り、修業年限は3ヵ年、生徒人員は一学級30名…。」
この『南洋協会』をネットで調べましたら、創立発起人に犬養毅氏、渋沢栄一氏、新戸部稲造氏、歴代会頭に近衛文麿氏がいました。😌😊
この張り紙を見た頃当時の日本の置かれた状況を、亀山氏はこの様に書いています。
「…東南アジアではタイが米・英に対して宣戦を布告。インド、フィリピン、インドネシアでは独立運動が昂まっている。」
「…従来の日・満・支3国中心の共栄圏形成から踏み出して、南方を含めた大東亜圏に拡大され…、ABCDの軍事的・経済的封鎖を破って南方諸地域の各国と共に…、仏領インドシナが南方圏の中心にあり重要な位置を占めている…。仏印は日・独・伊の枢軸国側に組するヴィシー政権下の半島である。」
上⇧の、「タイが米・英に対して宣戦を布告」の背景は、少し前の松岡洋右外相(当時)の『泰仏国境紛争調停』(1941.3.11)成功があります。同日バンコックの祝賀会で、タイのピブン首相は、
「われらは日本の誠意と友情に感謝する。…われらは日本と提携し、あくまで東洋平和のため邁進せんとするものである。」
『包囲された日本』
と、スピーチし、そして、8月1日にタイは満州国を承認しました。余談ですが、このピブン首相は、『北部進駐』の第5師団中村中将が後にタイに赴任した時の縁でしょうか、1957年軍事クーデターで失脚後は、中村中将を頼って日本へ亡命、そのまま1964年に神奈川県小田原で亡くなりました。😭
この当時は、「ヴィシー政権下の半島」と表現されたインドシナ半島でしたが、この頃日本から赴任して来た芳澤駐仏印特派大使の着任を祝うドク―仏印総督から送られた公文書がこちら⇩です。
「閣下
閣下のインドシナ御上陸に当たり、小官最上の歓迎の辞を呈し…、閣下の御使命御達成に対し衷心の祈念を表明します。(中略)…我等両国共同の利益とインドシナ連邦に於ける仏国主権の認知との上に基づきたる、真摯にして誠実なる協力を実現に到らしむべきものと確信しております。」
「芳澤駐仏印特派大使」とは芳澤謙吉氏(外交官・元外務大臣)のことです。犬養毅氏の娘婿で、仏領インドシナ史には必ずお名前が出ます最重要人物のお一人です。日本とフランスの友好な関係が読み取れますよね。
「…諸般にわたって、明治34年創立の東亜同文書院に倣っていた」という南洋学院に、亀山氏は600名近い応募者のなか見事合格します。11月25日神戸で「帝立丸」に乗船して、途中台湾に寄港、南部サンジャック岬(現在のブンタウ)に到着しそこからサイゴン港に入ったそうです。
「サンジャック岬から西貢(サイゴン)港まで直線では70キロぐらいなのだが、デルタ地帯のここでは河がくねくねと蛇行している。…やがて西貢の街、ひときわ高い協会の突塔が見えてきた。この突塔が左舷に見えたり、右舷に来たり忙しい。次第に没日に染まった建物も、並木もそして車も人も見えてきた。」
「ひときわ高い協会の突塔建物も」とは、勿論一区の中心にある『聖マリア大教会、Nhà Thờ Đức Bà 』ですよね。昔はまだ高い建物が無かったので、サイゴン河の船上からはっきりと見えたのかな。「並木もそして車も人も」とは、今のトン・ドック・タン(Thông Đức Thắng)通りかドン・コイ( Đồng Khởi)通りでしょうか。。 因みに、当時まだバイクはありません。。。😅😅
「学校校舎は西貢中央駅、中央市場(今のベンタイン市場)からショロンに向かう市電の走るガリエニ大通りを西に2キロほどの右手(北側)にあった。正確にはショロン市に入ったばかりのショ・クワン98番地」
これが、一番上⇧に張り付けた画像です。
明郷(ミン・フゥン)末裔の友人が場所を調べてくれました。「ショ・ロン(Chợ Lớn、チョ・ロン)市に入ったばかりのショ・クワン(Chợ Quán)通り」は、ネットで古地図を調べると載っています。多分、現在の5区中華地区の「カオ・ダット、Cao Đạt通り」ではないかとのこと。😌
明けて昭和18年正月の当時のサイゴンの様子は、
「前の年には、この仏印北部で、ホーチミン(阮愛国、グエン・アイ・クオック)がベトナム独立同盟を結成、その波紋が広がり始めていたのだが、その動きもここ南部には及んでいない。荒れ狂う台風でもその目の中は嘘のように静かだという。ここ西貢は、まさにこの時期、その目の中にあった。」
「街のセンター地区、中央市場や、あちこちのロン・ポアン(四辻)には人権宣言以来の「自由・平等・博愛」に代わってペタン元帥の肖像と「祖国・家庭・勤労」のスローガンが三色旗と共に樹てられていた。」
当時の南方激戦各地で日本軍の玉砕が相次ぐ中で、この仏印だけは別天地のように静かだった、という回想録をよく目にします。。
当時のフランスは、ペタン首相(元帥)のヴィシー政府です。ペタン政権下のフランスは、成程、「自由・平等・博愛」はさて置き、「祖国・家庭・勤労」の方が国家にとって全然大事です!。。これ、私は正論と感じますけど。。。でも、ホーおじさんの『再・独立宣言』ではまたひっくり返され、再び「自由・平等・博愛」。。😵💫😵💫😵💫
「”東洋の小巴里”を自称する西貢である。軽やかに連れ立つフランス娘たちの形のよい腰と脚、ショートパンツで颯爽と自転車で行き交うマダム、ピンクや水色のアオザイの安南娘、時とするとアオザイの切れ目から白い肌が透けて見える。(中略)半ズボンに白いヘルメットのフランス陸兵、赤いボンボン付きの帽子を被ったスマートな海兵たちが、パリ流儀のペーブメントにせり出したカフェのテラスでビールを煽り気焔を上げては通りすがる女たちに声をかけている。タマリニエや、ヤオの並木の美しいカチナ通り、エスパニア街、マクマホン通りに見られる情景だ。」
1943年頃までは、こんな感じでのんびりした雰囲気のサイゴンで、私の知る20年前のホーチミン市と余り変わらない感じです。
しかしですね、「前年11月に米・英連合軍が北アフリカのアルジェに上陸、ペタン元帥のビシー政府が抗議して米・英との国交を断ち」、「9月にはイタリアが全面降伏…」とあるように、徐々に連合国軍側優性の波が、サイゴンにもひたひたと押し寄せて来ました。
「…10月に入ると内地の大学・高専生が「徴兵猶予停止」となり、(中略)。東南アジアの扇のかなめ、湊のある西貢には南方各戦線の傷病兵、雷撃で救出された船員や将兵がたくさん病院に収容されていた。ここに着いてから死ぬ栄養失調患者も多くいた。それらの人々の語る各戦線の状況はおじけをふるうような実態であった。」
「前年の秋口からこの頃(昭和19年正月)にかけて、西貢、ショロンの町には異常に緊迫した空気が流れた。理由は日本軍部隊の夥しい通過だった。」
埠頭から郊外の宿営地へ行軍する隊列には、「重い荷を担いだまま街路樹の下に倒れる兵、それらを介護する兵、落伍兵に気合を入れる下士官・将校」、そういった情景がいたるところで見られたそうです。
亀山氏が、「…どこから来た師団かは分からなかったが、長い船旅、しかも穴倉のような船倉に放り込まれて到着したのが高温多雨のこの地である。体調を崩さない方が不思議なのだ。」と言う様に、こんな状態では既に突撃も何もあったものではない苛酷な状態にあった日本軍の兵隊が続々とサイゴンに上陸し、『インパール作戦』へ向かいました。。
昭和19年7月には、『南洋学院』は第3期生を迎えましたが、『徴兵年齢』にある第1期生は『徴兵検査』を受けます。10月修業年限が短縮されて繰り上げ卒業で、卒業生は皆現地商社等への就職が決まりました。
「ヨーロッパではパリが解放され、東部戦線のドイツは敗退に次ぐ敗退、南太平洋ではグアム、テ二ヤンが玉砕、内地の空爆も苛烈さを増していた。7月の日本では東條内閣が倒れて小磯内閣に代わっていた。特に、サイゴンでは、完全に失敗したインパール作戦の患者・傷兵から、悲惨な負け戦の実相が半ば公然と語られていた。」
「ヨーロッパではパリが解放」、要するに『ペタン首相のヴィシー政府』は崩壊、『日独伊三国同盟』も逆に仇になりました。。
とうとう、サイゴンに居た『南洋学院』卒業生へ入隊命令が来て、亀山氏は地元駐屯第21師団の歩兵83連隊に入隊したそうです。『明(マ)号作戦』の時には在校中の第3期生も学徒動員されて、『南洋学院』は最期、昭和21年2月2日付けで吉田茂外相名によって正式に閉鎖となりました。
「創立開校から閉鎖までわずか3年余の命の学院だった。花の命の移ろいと儚さは周知のことだが、ある時代、半世紀ほど前に、国が力を傾けて創ったこの学院に、日本の将来を真ん底思って集まった若者たちがいたことを知っている人はまずいないだろう。」
亀山氏が著書『南洋学院』を出版したのは1996年です。関わった人たちが高齢で世を去る中、「…誰かが書かねばならぬ。書いて文字にしておけば、」「百年後にもどこかに残るだろう」、そう考えて筆を執ったとおっしゃっています。
私が初めて住み始めた1990年代のベトナム(南部)は、まだ戦前を知るベトナム爺さん達が沢山ご存命で、戦争を乗り越えて来ただけあって頑固一徹な人ばかりでした。『日本』と『日本軍』の事を悪く言うなど以ての外で、『それだけは絶対に譲れない』と言わんばかりでした。。😅😅
そんなベトナムの爺さん達もみな既に鬼籍に入り、近年ベトナムと日本の関係も新たなステージに入ったように思えます。。。
『南洋学院』同窓生の方々は、平成3年(1991)4月『日越文化協会(JVCA)』を設立し、寄付金でホーチミン総合大学とフエ師範大学で南学(なんがく-NANGAKU)日本語クラス開校援助を行いました。1991年頃のベトナムはまだアメリカの経済制裁下にあり、外国投資も殆ど無く旅行客もまばらの本当にまだ極めて貧しかった頃でしたから、いち早く祖国復興へ次世代の教育育成に手を差し伸べてくれた『南学(なんがく)=南洋学院』同窓生の援助は、当時多くのベトナム人に感謝されていました。
使命を終えて既に閉校したこの日本語学校のことを知るベトナム人も少なくなりました。それは当然だと思います。けれど、こういった日本人の先達の善行をいつまでも手本とし、見習うべく忘れずに語り継ぐ事が、我々日本人の若者が海外で誇りを持って仕事をしていく上で必要だと思います。😊