ベトナム志士義人伝シリーズ⑧ 番外編 ~ベトナムを扶けた中国の人々~
「ベトナム志士義人伝シリーズ」では、仏領インドシナ(当時)で抗仏闘争を戦った知られざるベトナム人運動家を紹介してきましたが、今回は『番外編・ベトナムを支援した中国義侠人』です。
明治期の末頃、祖国独立を志して日本へ渡航して来たベトナム人達。彼等を、陰日向に応援した中国人と日本人の存在を知れば知る程、私達のご先祖様は本当に昔から国は違えど困難な時、危機の時、リレーの如くお互い助け合ってここまで来たのだと感じます。
しかし、、戦後、特に今はもう、我々庶民はお互い『嫌・反・侮』で溢れ、万一の時すぐに助け合えますか。。。私の夫(ベトナム人)は『中国大嫌い』だし、日本の友人は殆どが中国・ベトナム=ビジネス・娯楽。。。
仏領インドシナ時代、クオン・デ候や潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)たちが最も苦しめられ、仲間を殺され、祖国を汚された相手は『外国の手先となった同国人』でした。同じ様に中国と日本にも、そんな自国人らと暴力・汚職・犯罪を憎み、身体を張ってベトナム運動家を懸命に応援した沢山の人がおり、ベトナム抗仏史関連書にはそれら人々の名前が律儀に書き遺されています。
1905年、武器購入の為に党代表として来日した潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が真っ先に頼ったのは、横浜に亡命中の清国保皇派の梁啓超(りょう・けいちょう)でした。梁啓超は、潘佩珠に犬養毅や大隈重信を紹介し、犬養毅は孫文(そん・ぶん)を紹介します。クオン・デ候の自伝にも、福島安正(陸軍大将)、柏原文太郎(衆議院議員)、陳其美(ちん・きび、)、黄興(こう・こう、)、宋教仁(そう・きょうじん、)など、当時の日本と、中国革命党の要人らの名前が沢山出て来ます。クオン・デ候は、日本で知り合ったこれら要人達について、「いずれも大変良い人達で、ベトナム革命に同情を寄せてくれ、援助を惜しまなかった」と書いています。
日本上陸後、幾日も空けずに潘佩珠が日本の要人と会談できたのは、王家の使者を意味する『クオン・デ候の親書』を携えていたことも大きな要因に挙げられると思います。一方で、思いがけず知り合った普通の人々、例えば日本の警察官に車夫、そして中国人留学生等は、見すぼらしい姿のベトナム人運動家らを、ただその義侠心で手を差し伸べ、何の見返りを求める事もなく援助してくれました。
この沢山の市井の義侠人たちの中でも、クオン・デ候とファン・ボイ・チャウが共に『多大な恩を受けた』と書き遺した中国の義侠人が2人います。
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賄船員 里慧(り・けい)氏
「乙巳(1905)8月、潘佩珠は鄧子敬と共にベトナムに戻りますが、ベトナム国内で既に自分達の日本渡航情報が洩れ、世間に知れ渡っていたことを知ったのです。その為、昼夜用心深く行動して、ゲアン省では人目を避けて移動し、私の居るフエには用心の為近づきませんでした。(中略)潘佩珠自身は、9月に入ると直ぐに陳東風(チャン・ドン・フォン)から銀貨15枚と銅貨200枚の援助を受けて、 日本へ再び渡って行きました。」
『クオン・デ 革命の生涯』より
日露戦争直後ゆえ、当面日本にベトナム武器援助の余裕はないと知らされた潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、直ちにベトナムへ戻ってクオン・デ候へこの結果を報告しました。また、なるべく早くクオン・デ候も日本渡航されたしと書き添えました。
潘佩珠は、国内で手短に用を済ませて再び日本へ向かいますが、この時に英国商船で働いていた一人の中国人船賄夫と出会ったのです。
「欽州に着くと、丁度商用で香港に行くという船主がいたのでこの船に乗った。6日目に(広西省)北海に着き、香港行きの西洋籍船に乗り替えたが、この船で思いがけず良い友を得た。彼の名は、里慧(り・けい)と言った。
里慧氏は、この船の賄長だったが、我等3人の周辺をわざと行き来たり、どうやら普通の旅客じゃないと踏んだのだろう、暇を見つけて私達に話しかけて来た。しかし私達は迂闊にお喋りは出来ないから、社交辞令を交わし、良かったら香港に着いてから我達の旅館で話そうと誘っておいた。
数日後、里慧氏が旅館を訪ねてくれ、色々話をしてみると、彼はよく大義を弁えた人物だったので、ここで初めて私達の素性と本来の目的を明かしたのだった。里慧氏は、それを聞くと尋常でない歓び様を見せ、是非お手伝いさせて欲しい、と言ってくれた。
その日以来ずっと長い間、船中に掛かる事、要するに金銭の密送、留学生の密航、祖国に出入りする書信の全てはこの里慧氏一人で請け負ってくれた。何年間もの間で、不明になったり漏れたりすることは一度も無く、そして、彼はただの一度も恩着せがましい文句だとか費用など口にした事はなかった。
私達の絆は、時が経てば経つほどに厚く深まった。里慧氏の実弟は里司(り・し)氏といったが、兄君と同じように誠の志を持った男だった。」
『自判』より
翌年1月にクオン・デ候が日本に渡った時も、この里慧(り・けい)氏のお世話になったと自伝に書かれています。
「元々は支那を通って日本へ行く道程を真似る予定でいたが、数か月前に潘佩珠と一緒に香港に渡り、丁度国へ戻って来ていた阮典(グエン・ディエン)に偶然南定 (ナムディン)で会いました。彼によれば、海防(ハイフォン)から直接海路で香港へ 出られるという。ハイフォン-香港航路の英国商船に、支那人の賄船員で里慧 (り・けい)という人物がいて、前回潘佩珠が香港に行く時に世話になったので、今回もその御仁に頼めるだろうと言うのです。その為、予定を変更して海路を取ることに決めました。数日後再びハイフォンへ行き、阮典の紹介で里慧氏にお会いして、 お宅に泊めてもらいながら船を待ちました。 里慧氏は、フランス人の下で働いてはいるが義侠心に富んだ御仁で、それ故、国事に奔走する者に協力を惜しまなかった。
このような人は滅多に居るものではありません。」
『クオン・デ 革命の生涯』より
里慧氏と弟の里司氏は、その後にベトナム援助の罪で「捕えられ終身刑を受けた」と潘佩珠は言い、「国許の着飾った官人どもの中に、この船賄夫の如き義侠心を持つ者が一人でもおるだろうか?そのことを考えただけでも、彼の事は語り継ぐ価値がある。」と書き遺しています。
潘佩珠の自伝書『自判』の編集者である英明(アイン・ミン)書店の呉成人(ゴ・タイン・ニャン、Ngô Thành Nhân )氏は、「後に里慧氏は釈放されてフエに潘佩珠先生を訪ねて来た。その時撮ったのがこの写真です。」と本の中に注釈を加えています。(この記事の一番⇧上に張り付けた画像)
呉成人氏は、1960年代に、『潘佩珠伝』の著者である内海三八郎氏へ『自判』漢語本を送った人ですが、その時に一緒にこの写真も同封していました。ベトナム人志士たちは、この中国の義人、里慧氏によほど恩義を感じていたのでしょう。
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広東(かんとん)の周(しゅう)師女史
1909年10月、門司港から出港し日本を退去したクオン・デ候一行は、上海、香港、マカオを廻った後で広州に滞在しました。
「マカオには数日間滞在しただけで興味が薄れてしまい、直ぐに広州へ移動しました。広州では、支那人の友人から紹介された西関黄沙にある周師女史の家に世話になりました」
この「周師女史」とは、
「年齢70歳近い支那人寡婦で義侠心に厚い婦人でした。私に対して大変敬意を持って接してくれ、どんなことでも常に協力を惜しみませんでした。その後、潘佩珠やその他の多くの同志たちも、困難な時にこの婦人に大変お世話になった。周女史のご子息は鍾(しょう)氏と言う名だったが、彼もベトナム人に大変親切でした。 」
クオン・デ候は、ここで3か月程お世話になったのでしたが、クオン・デ候は避難して来たのだ、と友人が周女史に説明した為、特別に隠れ部屋を提供されたと言います。
「2階の個室を綺麗に片付け、私の住居に提供してくれました。誠に有難い女史の志だったが、これが私にとっては大変厳しいものになりました。部屋の真下が台所だったので、毎日食事の支度時間になると、料理の熱気と舞い込む煙がさながらネズミ退治のようでこれには参ってしまいました。」
自伝全篇を通してユーモアある語り口の多いクオン・デ候は、小さい失敗でくよくよしないベトナム人らしい、楽天的な性格だったように私は感じています。
潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)も、1910年頃に広東に滞在していた時に周師女史にお世話になったと書いています。
「周恩人-広東省香山県の人。漢文の素養深く、若くして寡婦となり、私塾を開いて女学生に勉強を教えて生計を立てていた。周女史の実子、鍾氏も教師だった。ある日、道端で書を売っていた私を、鍾氏は自宅に連れ帰り母に紹介した。彼の母-周女史は義侠心に厚い女丈夫で、故事に聞く英雄豪傑の珍しい話ばかりを話題にする。私の顔を一目見て、これはベトナム革命党の人間だと見て取った周女史は、喜びを表して、こう言った。
”皆さんは今お困りでしょう。我が家を隠れ家にお使いなさい。何も気兼ねは要りませんよ。”
我々は皆金に困っていたから、家を借りられない者がこぞって周女史の家に集まって来た。その日から、西関黄沙に住む周女史は我等の党員の如くなり、老いも若きも、男も女も、この家の世話にならない者は無かった。雑費、食費、家賃等々、手持ちが有れば払い、払えなくても何も訊されない。時たま、我等側で火急の用があり手持ち資金に窮すると、周女史は置物や装飾品を掴むと質屋に走って用立てしてくれた。大義や名分を振り廻す真似はせぬ、滅多に見かけない程の肝っ玉の据わった婦人で、我等が家の中に爆弾を持ち込んで隠してあっても、全く気にも留める様子もなかった。
ある日の夜、陳有力(チャン・フゥ・ルック)と鄧子敏(ダン・トゥ・マン)が、周女史の包丁を借りて出て行き、密偵を殺して来た事があった。翌朝、起きて来た周女史は笑いながらこう聞いた。
”お二人さん、昨晩の豚は上手く肉にさばけたかい?”
息子の鍾氏が、やはり私の事で広東都督の竜済光(りゅう・さいこう)に捕縛され10日間抑留されたことがあったが、周女史はこの時も泰然自若とし、取り乱す様な事はなく普段と同じ様に過ごしていた。私達に接する態度は、常に自分の子に対する母のようだった。今頃は御年80歳を超えるだろう。この恩人に対する我等の想いは、今も昔と同じく目に焼き付いて忘れ得ない。
一度、以前一年程この老婦人の家で世話になった党員がその後フランス側に寝返り密偵となっていたが、ある日、この家に立ち寄ったことがあった。これを贈りたいと申し出て、相当な大金を見せたそうだが、話を聞いて行くうちにその金の出所を察した周女史は、烈火の如くに怒鳴りつけた。
”以前はお前さんらを人間だと思っていたが、今はお前らは犬だ! 犬が私を買収するつもりか!!”
この見幕に度肝を抜かれた3人は、2度と周女史の家の敷居を跨がなかった。
性は周、字は柏齢。広東の習いで女教師を師太と呼ぶので、その名を周師太。」 『自判』より
潘佩珠は、『獄中記』の中でも周女史のことに触れています。
「この風塵の最中にあって、その恩はまさに計り難し。他日の報恩は夢想だもすることが出来ないのに、この広東城の周婆さんのごとき、たとえ私が生命を失って地下に入る時といえども、その厚恩はなお忘れ得ない。」
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ほんの百年前の実話。最近の日本では滅多に聞かないのが寂しいところ。。。
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