ベトナム古代史あれこれ (再) ~アップデート・追記有り~
ベトナムの抗仏闘争時代と近代史からちょっと離れて、ベトナム人の起源について考えて見たいと思います。
私は、生まれも育ちも生粋の日本人ですが、20歳を越えて初めて住み着いた外国がベトナムでした。住み始めてから、”はて?なんでこんなにも我々日本人に似ているのか?” と、素朴な疑問を持ったことが前提にあります。
今日は、戦前安南研究の大御所の古い文献をメインに、色々引っ張り出して見たいと思います。
今までベトナム史を色々調べて行く中で、私が最も衝撃を受けた記述が二つありました。
一つは、東洋史学者の有高巌氏論文『仏印と日本との史的関係』(昭和15年)の、
「石器時代の日本と大陸との関係は、朝鮮や満州との間に最も密接な連絡があって、次は勿論支那であり、又今の仏印(仏領インドシナ)地方からも若干の人々が稲を持って北九州に移り来たり、吾らの祖先の一部をなしたといわれている。」
もう一つは、松本信廣先生(慶応大学教授で安南研究の碩学)の著書『日本の神話』(昭和31年)の中の、
「海幸山幸の説話に於いてアマツヒタカヒコホホデノ命が、鉤を失って泣きうれいておると、古事記では塩椎神が、マナシカツマノ小船を造り、命をのせてワタツミノ神の宮にみちびくとあり、紀にも「無目籠(まなしかたま)を作ってヒコホホデノ尊を籠の中に入れ、之を海に沈む」とある。(中略)...、今一書には「無目堅間(まなしかたま)をもって浮木につくり、細縄をもって、ホホデノ尊を繋つけまつりて之を沈む、いわゆる堅間は。是今の竹籠なり」とある。
このマナシカタマを仏印に行われている籃船(かごふね)と比較し、竹で製しその目を一種の粘土又はマキハダの類でおおった船と解釈したのは西村真次博士の卓見であった。(中略)西村氏はインドシナの籃舟の構造を説明され(中略)この籃船の材料が竹であることと籃船がかつてシナにもあったことからインドシナ民族が往古我国に移住したことを類推されておるが、、、」
私が衝撃を受けたのは、『その昔、越人が水稲を持ってベトナムの方から渡来した』ことと、そして、まだ私が現役キャリアウーマン(笑)でした頃によく中部ベトナムに出張に行き、そこで見ていた『あの円形の籠網のおわん型船』が古事記に『無目堅間(マナシカタマ)』名で載っている??という興味深い内容でした。。。
あくまで研究者の一説かと思いますが、実に実に興味深い内容で、私の元来の好奇心が呼び起こされました。
そして、水稲が雲南方面の方から、当時の越国まで降りて来て、ここから船で海を渡り、日本列島にやって来た説は、落合莞爾先生(NOTE名白頭狸先生)のご著書『金融ワンワールド』(2012)にもこの様に載っていたのを発見しました。⇩
「多神教のイスラエル北王国は前722年アッシリアに滅ぼされ、十支族は東方に流移します。その末裔はやがて日本列島に渡来し、海部(アマベ)氏と物部(モノノベ)氏と秦(ハタ)氏になりました。これが本邦に渡来した古イスラエルの”御三家”です。
アッシリアの支配から逃れ、海路を東に取ってユーラシア大陸の東南沿岸を北上していたアマベ氏は、華南の越の海岸で倭人に遭遇します。倭人は、原郷の雲南から水稲を携えて長江を下り、越民と混血して半農半漁民となっていました。アマベ氏は、ここで配下となった倭人を率いて船出します。」
『金融ワンワールド』より
さらに続けて、この『越(えつ)国』についてですが、⇩
「安南人は西暦紀元前6世紀に、現在の支那浙江省の北部を占めていた、支那古代の越国(Việt,Yue)より出たものである。この国の住民は原始安南人と同様に身体に刺青を施し、頭髪を刈る風習を持っていた。越が紀元前333年に楚に亡ぼされた後、越の諸部族は群をなして南方に避難し、封建的な国家を組織した。世にこれらを総称して百奥(Bách Việt)という。これ等の越の部族中には重要の集団が4つあったが、その中、3つは相次いで温州(浙江省南部)、福州(福建)及び広東に定住して、間もなく完全に支那に包括されてしまった。
ただ独り、第4の集団たる西甌(タイオー)(=貉越(ラックヴェト)、甌貉(オーラック)」のみは、支那に吸収せられず、これが後に安南人となったのである。」
この文章は、昭和16年の東亜研究所の翻訳による『安南史講義』です。
翻訳の元本は、当時の『仏領インドシナの初等学校中級及び上級科用の歴史教科書』で、著者は『楊廣咸(Dương Quảng Hàm)氏」。要するに当時の彼の地の学校教科書ですね。これを当時の企画院管轄財団法人の東亜研究所が翻訳したものです。著書の編纂要旨の中で楊氏は、フランス人であり、恩師である教育専門学校長ミユス氏に対し、その援助に対し深甚の謝意を表しています。
因みに、なぜ東亜研究所がこの教科書に邦訳をし、『安南史講義』と題名しているのかについては、邦訳年が昭和16年(1941)ですので、多分当時の満鉄の東亜経済調査局研究所、通称大川塾などの特殊学校の講義などに使用されたのではないかな、と推察しますが、あくまで推察です、本当には判りません。
大川塾に関しては、私の本、ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 | 何 祐子 の中にも簡単に触れましたが、玉居子精広氏の『大川周明 アジア独立の夢』に詳しいです。
話を『越国』に戻しますと、仏領インドシナ時代の学校教科書には、
「BC333年頃に『楚』によって滅ぼされた『越』の越人が避難、離散して、その一部が安南人となった」
と書いてあります。
そして、その一部の越人も日本に渡来したそうですから、日本にもその子孫が、島国の中で混血を繰り返し、今日まで面々と繋がって来ている訳です。
そう考えると、”なんだ、日本人とベトナム人が似ているわけだ、元々同種じゃない。。。”と、妙に納得したのを覚えています。
ベトナム革命運動家ファン・ボイ・チャウが、自身の自伝書『自判』の中で、盛んに日本のことを『同文同種の国』と呼んでいるのも、このことを知っててだったのだろうか?、と私の好奇心は続きますが、死んでからあの世で会えたら聞いてみることにします。
上記の内容を裏付ける文章が、同じく松本信廣先生の『安南人の起源』(昭和19年)という論文の中にあります。⇩
「オルソー氏(当時ハノイの仏国東洋学院院長)は彼の学説を立てておる。即ち史記に見ゆる風俗の記述は紀元前3世紀及び2世紀に両広(広東と広西のこと)、及び東京(トンキン)に栄えた種族にもあてはまる。(中略)紀元前に最南にいた種族は安南人である故、紀元前2世紀より前広東、広西、海南島に居住した人民は既に安南人であったことに疑いがない。」
「紀元前4世紀中葉に越の名は浙江の紹興に都した王国を指すに用いられている。また司馬遷は此の国人の文身断髪であることを伝え、越絶書(BC1世紀)にも同様な記事がある。(中略)安南人はその起源を越に引くと云われ得るであろう。
松本信廣先生のことは、『東亜民族文化論攷』(昭和19年)の『序』の中で、このように紹介されています。
「若き日の松本先生が巴里なるソルボンヌ大学において(中略)彼地の文学博士の学位審査の難関を堂々と通過されたことは、(中略)一大驚異であった。(中略)かの東洋学のメッカに至って全世界の俊秀等と競い、よくその最高学位を獲得したものはまだ一人として(わが国には)無かったからである。」
ここから解るように、ちょっと桁違いに凄い先生でした。。因みに、松本先生は、昭和17年に『安南語入門 会話篇、文法篇、読本篇』という語学教書も残されました。。。それと、『稲』『船』に着目したご研究の論文も多いですので、最後に、先生のご論文『古事記と南方世界』から拾っていきたいと思います。
「古事記に現れた古代世界は、すでに農耕が主体となり、稲の栽培が最も重要な行事となり、その生育を充分に果たすことが為政者の任務であった。しかも稲の栽培植物としての起源は、南方地域に存すると考えられておる。今日のインドネシア、インドシナの地域に広く行われている稲に関する農耕儀礼は、稲を神聖視し、その精霊を人格化し、その生殖、出産を祝う儀式を中核としている。」
「古代における海外との交通は船をもって行われておる。わが国の初期の水運は、はじめ刳船(刳=えぐる)の類をもって行われていたが、後に構造船が用いられるようになった。(中略)わが国の弥生時代の所産である銅鐸の上に見える舟図を見ても、この形式の舟は、今日東南アジア辺に行われておるカヌーの形によく似ておる。(中略)中国の文献を見ると、中国南部に移住した越人がこの式の軽快な舟を好んで使用していたことが窺われる。インドシナに移り住んだ越南人ももちろんこの型の舟を利用しておる。してみると古代日本人の使用した舟はこの南シナの古代船と連絡し、南方の航海文化とつながりを持っているように思われる。」
以上です。
今日は、ベトナム人の起源とされる『越人』を探求してみました。越人は日本列島にも渡り来て、土着して同化し日本人となったそうですので、どうりで似ているはずです。。。
そういえば、日本海側の北陸あたりは、上越、越後、越前等々と、「越(こし)の国」と昔から呼ぶので、なんでかな?と不思議に思っていましたが、もしかして越人の末裔が多く定住した土地だったのかも知れません。そういえば、あの辺は昔から「米どころ」の名があります。新潟や秋田の女性などは、すらっとして背が高く、面長で綺麗な人が多いです。これは私の個人的な見解です。。。
個人的見解ついでに、上の⇧、「支那古代の越国(Việt,Yue)より出たものである。この国の住民は原始安南人と同様に身体に刺青を施し」の文章についてですが、チャン・チョン・キム氏の『越南史略』にも、「 ホンバン期の古代伝説」の章に、
「史書の伝えるところによれば、第1代目雄王の時代の文朗国の民は、網漁業を生業としていた。民が河で蚊竜に噛まれることが多かったことから、王の命令により、人々は身体に藍で絵を描き、蚊竜に仲間だと勘違いさせて被害を防ぐようになった。また、史述に寄れば、我が民族の船には船先に2つの目玉が付いているが、これも河や海に住む水獣の類が近寄って来て悪さしないようにという意味がある。」
という記述があることを思い出しました。
それと、以前読んだ、ハインリヒ・シュリーマンの『シュリーマン旅行記 清国・日本』(石井和子氏訳、1998年)の中で、当時江戸に着いたシュリーマンが見た港で荷物を運んでくれる人足が、「褌に全身藍色の刺青を入れている」と書いてあったのを思い出しました。(この本今手元になく。。後日文章アップデートします。)
しかし、こういった歴史物語が何かの拍子で繋がり出すと、探求は実に楽しいです。。
若い時に経済成長期のベトナムに来て、本当に何もかもが楽しかったのですが、今はリタイアして自宅でのんびりしていても、飽きることなく過ごせているのは、やはりベトナムのお蔭かと思いますと、本当に感謝しきれないです。