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ベトナム近代史に現れた、有事に必ず蘇る-日本の”海賊”の存在

 ベトナムの仏領インドシナ時代、日本に亡命したベトナム皇族クオン・デ候ベトナム独立を支援した日本人、そして在インドシナ日本軍等詳細を知ることが出来る本に、牧久氏著『「安南王国」の夢』(2012)があります。
 この本の第8章『開戦と松下光廣のサイゴン復帰の中に、『山根機関と許斐機関』の節があり、このような内容が書いて有ります。⇩

…前述したように、山根道一が代表を務めていた澤山商会ハノイ事務所が台湾拓殖会社に吸収合併される形で「印度支那産業」が発足したのが1937(昭和12)年末。(中略)
…1941(昭和16)年10月、開戦準備に入った仏印派遣軍の参謀長、長勇(ちょう いさむ)は少将に昇進、同11月、寺内寿一大将を司令官とする「南方軍」が創設されると、南方軍参謀副長兼司令部付仏印機関長となり、同時に赴任して来た芳澤謙吉大使付きの陸軍随員として彼を補佐することになる。彼は司令部の置かれたサイゴンに常駐し、仏印全域での諜報、防諜、軍需物資獲得の総責任者となったのである。
 山根道一を中心としたグループは長勇の直属機関に組み込まれ、昭和16年10月9日、正式に「山根機関」として発足する。(中略)
 義兄弟の契りを結び、長勇を「次郎長親分」と呼び、長もまた「大政」と呼んでいた許斐氏利(このみ うじとし)が上海からハノイに戻って来たのは、南方仏印進駐の準備が進んでいた昭和16年6月である。彼は北部仏印進駐の際、仏印派遣軍参謀長の長勇に同行してハノイ入りしたが、その後、上海海軍陸戦隊の要請で、上海に「許斐機関」を設立、蒋介石の工作機関と地下で激しいテロ合戦を展開してきた。”長一家”のナンバー2である許斐氏利も「山根機関」に合流、すべての特務工作は南方軍特務機関長である長勇の下に一本化された。

『安南王国の夢』より

 ここから⇧判る様に1940年頃からの仏印(ベトナム)に於いて、当時仏印で『ハノイの梁山泊』と云われた『山根機関』と、上海でその名を轟かせた許斐機関』ハノイ入りし、この両機関が共に長勇少将(後に中将)の下で活動を開始した。。。。この面子を見れば、当時陸軍(のある人々)が仏印(ベトナム)植民地解放に並々ならぬ熱意で準備をしていたか判ると思います。。😀😀

 以下、少々長いですが”海賊”考察までの前置きです。。😅😅

 実はワタシは、以前に戦前古書中ちらちらとお二人の名前を見掛けた時、フリガナが無いので苗字が読めなかった。。(笑)
 まあ『長=ちょう』は解かりましたが、『許斐』は勝手に『フア・ブイ』と読んでました。えっ?何で?と思うと思いますが、ベトナム語の古い本は漢語が所々使用されて居る為、ワタシはつい癖で『漢字』を越語読みする習慣があるのです。。。
 ここ⇒Họ người Việt Nam で確認できる様に『斐』はベトナム人姓トップ9のBùi(ブイ)』『許』姓はトップ10に入らない少数派華僑系の『Hứa(フア)』。因に、『長(張)』Bùi(ブイ)』の一つ上でトップ8Trương(チュォン)』にランクイン。
 そんな理由で、ワタシは当初『チュォン氏』と『フア・ブイ氏』と勝手に読んでました。。。(適当過ぎる。。😅😅😅)

 さて、上⇧の、
義兄弟の契りを結び、長勇を「次郎長親分」と呼び、長もまた「大政」と呼んでいた許斐氏利(このみ うじとし)

 この部分、気になります。。
 一体どんな人だったの?と、ご興味がある方にお奨めが⇒ 特務機関長許斐氏利: 風淅瀝として流水寒し : 牧 久
 ネット情報
もあり。許斐氏利 - Wikipedia

  戦前、陸軍橋本欣五郎大佐と若手将校達で結成された『桜会』の中心人物だった長勇中将と『親分・子分』の仲だったとは。。では先ず『長勇(ちょう いさむ)中将』はどんな人だったのでしょうか。。
 

「親分肌の熱血漢」 大川周明博士談
長参謀長は一口に云えば天正の武将を偲ばせる風格があった、豪放磊落で斗酒もなほ辞さぬの嗜好でその反面人情深味厚く、俗にいふ親分肌の熱血漢であった、長参謀長に世話になった一青年は沖縄の護りが危ふくなるや俺は長参謀長とともに死ぬのだと沖縄への便を求めて飛んで行った、(中略)彼が昨年8月(沖縄)赴任の出発の前日、私を訪ねて来たので一緒に晩飯を食べながらささやかな送別の宴を張ったが、この時彼は子供達とは桜井の駅の別れをやって来たと語った、そして「醜敵一度上陸し来ったならば徹底的に大出血の鉄槌を喰わせてやるぞ、大川さんともこれが最後のお別れだ」といっていた、彼は大の楠公崇拝者で自ら憬楠と号していた(以下略)」

「安南王国の夢」より

 これ⇧は、米軍の沖縄本島上陸作戦を前に、沖縄防衛軍(第32軍)参謀長として赴任していた長勇参謀長が、昭和20年6月に牛島満最高司令官と共に割腹自決したことを報じた7月の朝日新聞記事大川周明先生が寄せた談話の一部です。
 ではでは、次に許斐氏利氏に関してですが、『特務機関長 許斐氏利』の『第2章 博多の暴れん坊』にこんな記述があります。⇩ 
 

 許斐氏利は福岡県・宗像大社を護る「許斐城」の城主の末裔として「許斐家」再興を託されて育ち、(中略)
 …明治44(1911)年12月16日、…福岡市萱堂町(現・奈良屋町)で生まれた。(中略)
 『宗像大社許斐城物語』という冊子がある。宗像大社が昭和40年4月に出版したこの冊子は、同大社と許斐城の関係を、史実や伝承を含めて調査したもので、九州大学図書館に残っている。(中略)
 (この冊子の)「序」にある「許斐三河守氏任公の400年遠忌の法要」は昭和36年12月10日、宗像郡宗像町の宗生寺で(許斐)氏利が施主になって営まれた。この時の案内状が残って居る。
 「許斐家第24代の祖許斐三河守氏任公が宗像郡許斐岳の山麓吉原の地に於いて戦死致したのが永禄3年旧暦10月10日であり丁度401年前であります。
 その後50年目毎に遠忌法要が行われて参りましたが計らずも私の代に此の400年がめぐり合わせた事は浅からぬ因縁と存じます。又許斐家の始祖氏元公より800年にも相当いたします(以下略)」

『特務機関長 許斐氏利』より

 因みに、長勇中将は福岡県糟屋郡大川村のご出身

 さて、この文章を読んでワタシは早速宗像大社・宗像氏』をネットで検索し、判ったのは、『海に非常に関係が深い』こと。。それで、私の脳天にピーンと閃めいた考え、それは、
 ”ああー、じゃあ、これはみんな海商・海賊の末裔か!!!”

 😅😅😅😅😅 
 ”また、突拍子もないオバはんや…”と思う方が多いと思います。

 何故こんな考えが浮かんだかというと、、、
 実はワタシは、ベトナムに住み着いたばかりの1990年代初め頃友人の親戚の家へ遊びに行き、中部ムイ・ネー沖の無人島で野宿した夜に海賊船の大群に遭遇した珍しい体験が有り。(いつか『ベトナム備忘録シリーズ』に….😅😅😅)
 
 それとですね、ベトナム人歴史家の陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏編『越南史略』下巻『第12章 阮王の南部統一』にこんな文章があったのを覚えていた為です。⇩
 
 「阮王(=後のザ―・ロン帝)が崑崙島(現コン・ダオ)に寄った時、名を何喜文(か・きぶん)という天地会所属の清国人が居り、配下の者何人かを率いて阮王の軍に加勢を申し込んだ。」

 この、「何喜文(か・きぶん)という天地会所属の清国人」⇒これは多分明国籍の次に清国籍。で、普通の人がこんな海の果ての孤島にふらっと居る訳ないので所謂当時『清匪』と云われてた海賊か或いは清国籍海商だと仮定し、そうか、なら我が婚家の『何(か、が、ハー)姓』にも海賊がいたな、ならば長、張、許、斐の家系の中にも当然海賊、海商がいた筈だな~、と漠然と思ったからです。😅😅

 この突飛な考え(笑)をいつか纏めてみたいと思い続け、最近やっとこれだ!と思う本に出合えたので今回やっと記事に纏めることが出来ました。(前置きが長くてすみません。。)
 その本とはズバリ!! 昭和30年出版、長沼賢海九州大学名誉教授(当時)著の日本歴史新書『日本の海賊』。その『10章 宗像氏の海上発展』にはこうあります。⇩ 

…宗像氏については、海国宗像、海神宗像三神、宗像の古代文化などの順でまず語るべきであったのを略して直にこの家が海商として発展することを語ろう。
 大和朝廷が半島経営の初めの頃、筒男三神が特に祠られ、長門一宮の神となり、又摂津住吉の神となり、更にそれが全国的に拡がった。承平天慶の頃、内外の海賊騒動の後、俄かに宗像神は優遇されたのは、筒男神が初めて優遇された事情に相通ずるものがあったからである。而して神主は奉仕する祭神と浮沈をともにするものである。文永弘安蒙古の襲来に際しても、同断のことがある。正安3年(1301)鎌倉幕府は宗像氏正を大宮司に還任せしめたが、その令書には明かに「異賊防御の為め」とあり、之より先き弘安4年(1281)の蒙古の襲来には高麗軍は宗像沖に出現していることを想起しなければならぬ。
 貞観11年(869)に新羅の海賊が博多湾内を侵して全国民を恐怖に陥れた。翌年朝廷は告文を宗像神に賜った。其の文中に、「中国(新羅と混合す)の盗兵、賊難のことを払わんが為め」とある。(藤原)純友の乱後には正一位、勲一等の神階を賜り、其の頃又此の神に菩薩位を授けられた。八幡神に大菩薩号をつけることは知られている。今宗像神に菩薩号を授けられたので、この神の性格が著しく変化し、それが幾多の歴史に縁起するのである。

 要するに、『海の衆』として『外賊防御』の重大な御役目を任っていたというようなことで、⇩

 国土の防御の中心は半島と筑紫の海峡(対馬水道)即ち玄海にあること勿論である。中国への遣使と云っても、船を動かす者は筑紫の海上民である。端的に云えば内国さきを守る者も、外中国への船を動かす者も、何れも筑紫の海賊どもである。所が一般の国史にはそうした名目は余り適用していないが、事実は上代以来の海賊の運動は続くのである。殊に国土防衛の処置に於いて然りである。

 ついでに、第8章『宋の商客と国際児』には中国唐代宋代に大陸側海商の張某、欽某、李某、駱某、王某、孫某、陳某、呉某らの名が見え、国際児(混血児)も多く居り、日本国内に拠点或いは多くが帰化したとも書いて有ります。
 
 ところで、『海賊』ってそもそもなに?です。⇩

 昔のこと、在る人軍舟の侍衆を海賊の者と云った。他の人之を聞き咎めて、昔より或は山に、或は海に盗みをするを山賊、海賊という、軍舟の侍に盗みをする者もいないのに彼れ等を海賊とは言語道断なりと怒る。或る人応えて、然らば舟の侍を何と称すべきか、教え給えという、(中略)…故に船上の侍を海賊という、云々。…海上の武力を有する者を、南北朝時代の頃から海賊衆というようになった。其の海賊の名についての説明に関する悩みについて無理な説明をしあっているのである。真の悩みは又別にある。海上の武力は同時に海上の交運力を有する者であり、又海上の交易引いては一般商売力を掌握しているものである。海上の武力を有する者を武士といい、豪族という。交運力を有する者は船頭で、売買力を有する者が海商である。海上の豪族の部下には時に海賊するものがあるので之を海賊というなら、船頭も海賊であり、海商も海賊である。武力、交通、商業と分類しなければ、まとめて海上の勢力ということになる。

 そして、続けてこう書いてありました。⇩
 
 「…まとめて海上の勢力ということになる。つまり海を基本とする生活力である。総括した海上の勢力も海賊なら、海に生活力を求めてきた日本民族はすべて海賊ということになる。

 。。。ならば、ワタシも女海賊。。ふふふ。。😅 

 ”日本は全員海賊の一員と云っても過言ではない。”
 それなのに、日本史上に出て来ないのは何故でしょうか。⇩ 

 大和朝廷時代奈良平安時代に於ける朝廷中心の歴史は海に関する部面が多く忘れられている。西洋では行間を読むといい、東洋では紙背を読むという。朝廷の歴史は本文であり表である。行間にも紙背にも本文と同じ重要性のある歴史があるのである。其の行間其の紙背の歴史の中には海に関するものが少なくない。海に関するものというのは私のいう海賊に関するものである。朝廷の経済は農業経済、土地経済を生命とし、内陸深く海を離れた大陸的中国の政治経済を理想とするものであった。土地本位の政治は奈良平安の太平時代の終わりの頃には、あらゆる点でゆきづまらざるを得ずして、魏志時代以来の壱岐対馬の情勢が全国的なものとならざるを得ない。北九州及び(瀬戸)内海に於いては明確にそれが見せつけられる観さえある。自然海賊という名のつく者が初めて史上華やかに現れて来る。

 。。。ということで、ワタシはこの様に理解しました。⇩

 土地本位の中央政体による朝廷政治は、必ず定期的に行き詰まり、先ず国内で自国民の盗賊・海賊が横行する。その『内憂』が発生すれば自然に『外患』が来たり、そこで昔から常に外賊は船で攻めて来たので、必然"北九州・内海"の海賊・海衆が国土防衛の要だったと。
 そう云えば、明治維新、そして後の日露戦争も『対馬沖海戦』での海衆の活躍が日本へ奇跡的勝利を齎し、先の大東亜戦争も蔭で働いていた中心は玄洋社などの海衆でしたねぇ。。。

 あれ、そう考えると、、
 明治維新は最大の功労者だった薩摩藩の西郷隆盛の割腹自決で幕を閉じ、大東亜戦争も沖縄防衛軍(第32軍)鹿児島出身の牛島満司令官と福岡出身の長勇参謀長の割腹自決で沖縄陥落、"長崎・広島"に原爆投下で日本敗戦が決まったと。。。

 前回2度共、”海衆統領の割腹自決”で終わってるっ。。? ぐ、偶然なのかな。。😅😅

 
 


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