ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?②
ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?①からの続きです。
1945年3月9日の日本軍による武力処理(=軍事クーデター)『明(マ)号作戦』成功後、グエン朝バオ・ダイ帝は『独立宣言』を発布しました。そのバオ・ダイ帝新内閣の首相に就任したのが歴史家の陳仲淦(チャン・チョン・キム)です。
就任後、北部地方で『べト・ミン=ベトナム独立同盟』という団体が反日暴動を煽っているというので、キム首相はハノイへ飛びました。現地で得た情報がこちら。⇩
「…阮愛国は、”香港の獄で死亡”という誤報の後、李瑞(リ・トゥイ)と変名し、中国に居たベトナム革命党の人間と一緒に中国で活動していた。…『国民政府(国民革命)軍』の指揮官、張発奎(ちょう・はつけい)が、中国南部に居たベトナム人を纏めて『ベトナム革命同盟会』を設立したこと、そして、張発奎の部下の候志明(こう・しめい)少将に感銘を受けた阮愛国(=李瑞)が柳州市監獄から釈放後に、胡志明(ホー・チ・ミン)と名を変えてベトナム革命同盟会に『後補委員』として参加(した)」
陳仲淦(チャン・チョン・キム)回想録『一陣の埃風』より
ここ⇧で出て来る、国民政府軍の指揮官張発奎(ちょう・はつけい)をネットで調べてみると、「張 発奎(ちょう はつけい)は中華民国の軍人。陸軍二級上将。国民政府(国民革命軍)所属。粤軍(広東軍)の指揮官。日中戦争でも、中国軍の指揮官として各地を転戦した。」とあります。
「粤軍(広東軍)」と言えば、ファン・ボイ・チャウが自著『獄中記』の中で、
「粤越(えつえつ)〔広東・広西両省とベトナム〕が唇歯の関係にあること、及び累朝主藩にあること」
と言っているように,、昔からベトナムとは兄弟関係にある土地柄ですね。経歴中の注目は、中国国民党の汪兆銘(おう・ちょうめい、汪精衛)とかなり関係が近いことです。
なぜなら、汪兆銘氏と言えば、1938年暮れごろに重慶からハノイへ脱出し、2年後の1940年に南京で国民政府(=汪兆銘政府)を立ち上げた人物です。彼のハノイ脱出を手助けしたのが犬養毅元首相の長男犬養健(いぬかい たける)と陸軍の影左禎昭(かげさ さだあき)中将。またこの時期、陸軍の和知鷹司(わち たかじ)中将もハノイ入りし、活発に活動を始めています。
桜会(さくらかい)中心人物だった和知鷹司(わち たかじ)中将は、1938年頃から、在ハノイ『印度支那産業』に集うベトナム志士らと中国大陸のベトナム同志達、在日本のクオン・デ候との間を往復して工作活動を進めていたと言われています。
情報が或る程度出そろったところで、再度クオン・デ候の自伝に書かれた”或る”部分にもう一度触れて行きます。
1943年暮れに(多分、陸軍か政府関係者の指示で)東京大森区のクオン・デ候の所へ日本人記者が訪れ、インタビューした内容を冊子に纏めて日本で印刷されたのが自伝『クオン・デ 革命の生涯』です。
この中の「第15章 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の逮捕」で、クオン・デ候は ”何故か” 阮愛国(グエン・アイ・コック)の経歴を詳しく、冊子の読者に対して紹介しているのです。。。
”何故か” ――というのは、
ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?①に書いた様に、1931年クオン・デ候自身が、結核で入院中の阮愛国(グエン・アイ・コック)に手紙を送っていたのだから、当然彼の病状(=廃人同様)について詳しく知って居たと思われる。それなのに、1945年8月まで誰もが生きている事さえ知らなかった”極秘機密”を、クオン・デ候は1943年暮れの段階で確信を持って知って居たことになりませんか。。。
さて、ここから謎解きをしてみます。😌😌😌
陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の回想録『一陣の埃風』には、「国民政府(国民革命)軍の指揮官、張発奎(ちょう・はつけい)が、中国南部に居たベトナム人を纏めて『ベトナム革命同盟会』を設立」した時の詳細が書いてあります。⇩
「1940年末頃、日本軍が広西省からラン・ソンへ進攻した時、元々光復会会員の陳忠立(チャン・チュン・ラップ) も日本軍と共に進攻したが、日本がフランスと協約を結んだために、陳忠立はフランスに捕えられ処刑されてしまった。残された復国軍(=ベトナム建国軍のこと)約700名(内女性40名)は、黄梁(ホアン・ルオン、Hoàng Lương)に随って中国領内へ逃げた。
こうして、1942年以降中国国内には、ベトナム復国同盟会とベトナム国民党、そして無党派の革命主義者達が混在していた。
中国国民政府は、ベトナム独立同盟が共産主義だというので解散を命じ李瑞(リ・トゥイ=阮愛国の変名?)を逮捕し、同時に張発奎(ちょう・はつけい)に命じてベトナム人の各革命党・会派を纏めて一つ党に組織するよう命じた。それ故、張発奎(ちょう・はつけい)はベトナム人の黄梁(ホアン・ルオン、Hoàng Lương)にこの仕事を任せたのだった。
1942年10月、黄梁(ホアン・ルオン、Hoàng Lương)は、党、会派、無所属関係なく一つに集めて『ベトナム革命同盟会』を結成、各会派の代表者は以下の通り;
1) ベトナム復国同盟会から:黄梁(ホアン・ルオン)、胡学覧(ホー・ホック・ラム)
2) ベトナム国民党から:武紅慶(ブ・ホン・カイン)、 厳継祖(ギム・ケ・ト)
3) 無党派から: 張佩工(チュオン・ボイ・コン)、阮海臣(グエン・ハイ・タン)、陳報(チャン・バオ)、張忠鳳(チュオン・チュン・フン)
各派の代表で委員会を設置し、委員長に阮海臣(グエン・ハイ・タン)が選出された。」
と、こんな⇧経緯だったそうです。
委員会の嘆願によって出獄できた李瑞(リ・トゥイ=阮愛国の変名?)が、ここでこの出獄と同時に、胡志明(ホー・チ・ミン)と変名した経緯は先の①に書きました。
えーと、ですからここまで、
ゲアン省のファン・ボイ・チャウの元生徒・阮必誠(グエン・タッ・タイン)→阮愛国(グエン・アイ・コック)→李瑞(リ・トゥイ)→やっとここで胡志明(ホー・チ・ミン)。
この胡志明(ホー・チ・ミン)変名時に、なんとクオン・デ候の『ベトナム復国同盟会』同志と手を組んで、広西省で『ベトナム革命同盟会』会員になってた。。。🤐🤐
あ、なーんだ。やっぱり。。。です。
過去記事を読んで下さった方はもうお気付きだと思いますが、上⇧の「黄梁(ホアン・ルオン)」氏は、ドンダン・ランソン進攻の時のベトナム建国軍副司令官。「胡学覧(ホ・ホック・ラム)」氏はベトナム復国同盟会の最高幹部の一人。阮海臣(グエン・ハイ・タン)氏は別名武海秋(ブ・ハイ・トゥ)、元東遊(ドン・ズー)運動留学生で東京の振武学校に学んだ、最古参のクオン・デ候の同志です。
要するに、クオン・デ候は元々知って居た訳です、この経緯の全てを。1933年頃に、本物の阮愛国(グエン・アイ・コック)は既に死亡可能性の事も全て含めて。
推察するに、クオン・デ候は、『明(マ)号作戦』前頃、ベトナム国内で日毎膨れ上がっていた「ベトナム復国同盟会」勢力以外に、国外(広西)にも兄弟団体「ベトナム革命同盟会」が起ち上がり、そこにベトナム共産主義派のリーダー・阮愛国(グエン・アイ・コック)を取り込むことに成功したと信じて居た、と思われます。
深読みすれば、中国国民政府(=汪兆銘政府)が張発奎(ちょう・はつけい)に命じてベトナム復国同盟会の幹部を中心に在広西のベトナム人を糾合したというのも、背景には日本軍・政府・クオン・デ候の共同工作の影をひしひしと感じませんか。。。
だからクオン・デ候が、1943年暮れのインタビュー冊子で ”何故か” わざわざ阮愛国(グエン・アイ・コック)のことを”冊子のコアな読者”に紹介している。
要するに、元ベトナムの共産主義リーダー阮愛国(グエン・アイ・コック)=胡志明(ホー・チ・ミン)の取り込み成功は、日本・中国・ベトナムの中の、亜細亜諸国植民地解放と大東亜戦争勝利を願う人々にとっての最高機密、切り札だったやも知れませぬ。。。と、これは私の推察ですが。
しかしです。
残念ながら、日本側やクオン・デ候、ベトナム同志らの期待を見事に裏切ったのが1945年9月2日ハノイ、バ・ディン広場で胡志明(ホー・チ・ミン)氏が読みあげた『再・独立宣言』全文です。
その内容はと言えば、創造主を称え、平等の権利を謳い上げ、『アメリカ独立宣言』を引用しつつ『フランス人権宣言』を例に挙げています。その中身の要旨は人権・権利。そして、日本ファシストとの戦い、民族平等の権利に基づく君主制との100年の戦い。。。
極めつけは、
「私たちは、私たち民族は、フランスの手からではなく日本の手からベトナム国を取り戻したのです!」
なんてびっくりな、そんなあまりなトホホ…な内容です。。😅
こうなると流石にもう、この『再・独立宣言』の時は、広西省で日本の庇護の下べトナム人同士と共に『ベトナム革命同盟会』に参加した時のホーおじさんとは別人か、或いは元々完璧な英米のスパイだったか、或いは両陣営に2重3重のスパイが居て、まんまと日本側の特殊工作が土壇場で乗っ取られたかのどれかになると私は推測しますが。。。事実は判りません。
では、実際フランス時代の若き日の阮愛国を見知り、『再・独立宣言』直後にサイゴンで実際にホーおじさんに面会したフランス文学者の小松清氏の告白を見てみましょう。⇩
「何とよく似た人間がいることだろう。部分的な特徴といい全体的な感じといい、じつに阮愛国をほうふつとさせるものがある。しかし、胸の中で、はっきりと、これは別人だと判定をくだす声がつよくあがっていた。何となく違っている、というのではなく、どうしても、そうでないという鋭い直感から出た声であった。実によく似ているけれども、(中略)阮の気質にはつよく西欧的なものがあったが、ホー首席の場合はアジア的というよりも古典的な東洋的なもの、支那的なものが感じられた。」
『ホーチミンに会うの記』より
もう一つ、私が、1945年8月のホーおじさんはやっぱり偽物か…と思うのに、1950年8月、ローマ訪問団に加わって米国亡命する途上に日本に立ち寄った呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)と、クオン・デ候の面会場面があります。⇩
「(略)呉廷琰は黙ったまま、合掌するようにして半身を折り曲げると、恭しく頭を低く下げた。
クオン・デ候も合掌した。(中略)…呉廷琰は威儀を正して初対面の挨拶を越南語でのべはじめた。(中略)挨拶の途中で、感動に堪えられなくなったのか、急にぐっと咽喉を詰まらせた。感動を抑えようとして、かえって声が出なくなった。その時、それ迄黙ったままこらえてきたクオンデが、わっと声をあげて激しく嗚咽しはじめた。嗚咽する声といっしょに、涙がとめどなく頬を伝って流れた。」
小松清著『ヴェトナム』より
この場面だけを読むと、ベトナム王国光復の希望が破れ去った皇族クオン・デ候と王朝貴族家の呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)という旧体制主従2人がいい歳して対面に感動して、感傷に咽び泣いて慰め合っているだけに見えますが、私は全くそう思いません。
呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏は、アメリカ亡命を決める前、タイ・グエン(Thái Nguyên )省で直接ホーおじさんに会っているのです。
…それで、多分やっぱり偽物だと判ったのだと思います。そうでなければホーおじさんに会ってからアメリカ亡命を決める理由がない。
日本でクオン・デ候に面会した時、胡志明(ホー・チ・ミン)氏との面会の結果を知らせたのでしょう。それは結局、広西省での、クオン・デ候と国民政府と日本側の秘密工作は完全に失敗&乗っ取りに終わったのだとはっきり告知した形になったと、対面の時の2人の嗚咽はそのためだったのではないかと私は推測しています。。。
結局、ホーおじさんは一体誰? か、日本側の資料だけではまだまだはっきりとは判りません。。。いつかその内、彼の国々の方面から機密文書が公開されるやも知れませんので、それを期待しています。😅
ベトナムのネット社会でよく囁かれてるのは、若い時と晩年の”耳の形”の比較です。若かりし頃の阮愛国(グエン・アイ・コック)の耳は、確かに非常に特徴ある形…。①と②に張り付けた写真を比較してみて下さい!
尤も、ベトナム現政府による大本営発表、あ、違った(笑)🤐、ホーおじさんに纏わる数々の輝かしい史実・履歴・エピソード等は非常にXXXなことだけは簡単に判りますが。(笑)
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