戦前の『非常時内閣平和外相』 廣田弘毅(ひろた ひろたか)氏
昨年からここnoteで、明治末に日本へ亡命したベトナム王国(当時)のクオン・デ候やファン・ボイ・チャウに代表されるドン・ズー(東遊)留学生などのベトナム抗仏関連史を投稿しています。
大体、明治末期から日本軍の仏印平和進駐(1940年)前後に関連する古本を主に調べてますけど、古本に眠ってた内容には、令和現代と非常に相似する興味深い事柄が多いと感じています。なので、たまにベトナム史から少し離れてあれこれ書いてます。
今日は、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯、有罪判決で絞首刑になりました第32代内閣総理大臣、廣田弘毅(ひろた ひろたか)氏です。
先に、クオン・デ候とベトナム独立を支援してくれた団体『如月(きさらぎ)会』(=主体は『黒龍(こくりゅう)会』)の会主幹だった陸軍松井石根大将と、そして、静岡伊豆山にある『興亜観音』のことを投稿しました。
この興亜観音様には、「大東亜戦争殉国七士の碑」が建立されています。
昭和23年12月23日にA級戦犯として処刑され、石碑の下に遺灰が埋葬された七士の中、廣田弘毅(ひろた ひろたか)氏だけが外交官出身で、第32代総理大臣でもありました。
何年か前、クオン・デ候の自伝翻訳の為に関連人物の出身地や出身藩、出身校、所属会等々を書き出して整理しつつ交友関係図を作成してまして、意外なことに図の中心辺に『廣田弘毅』の名が入りました。😯😯
図に入った要素は『福岡』『修猷館』『柔道』『講道館』『玄洋社』、それと『皇道外交』。
何故、ベトナム近代史に『皇道外交』がキーワードになるかと言うと、やはり仏印平和進駐時の第2次近衛内閣外務大臣松岡洋右(まつおか ようすけ)の時の怒涛の外交背景には、その頃の『皇道外交』とその背景の『外務省革新派』の存在を感じました。それで私作成の図中『玄洋社』と『外務省』両者を結ぶ位置にスポッと何故か入ったのが『廣田弘毅』氏のお名前です。
とは言っても、、、私の様な戦後バブルど真ん中世代(成績中の下😅)のような者では、その時の第一印象は、、、”廣田弘毅氏って、えーとどんな人だったっけかな…💦💦😑”
。。。それで、昭和9年(1934)1月1日中央公論社発行の『非常時国民全集・外交篇』(非売品)という本が手許にあるので、今回ここから引用して見たいと思います。
廣田内閣は1936年3月~翌年2月。その前は外務大臣(1933年5月~1936年4月)ですから、この本は外務大臣就任後半年位の時の出版ですね。
目次(の一部)がこちら⇩
序文・・・外務大臣 廣田弘毅
皇道外交を確立せよ・・・松岡洋右
新大衆外交学・・・稲原勝治(日本外事協会主事)
力の外交・・・中野正剛
世界外交の危機1936年・・鶴見祐輔
~
列国は満州国を承認するか・・・筒井潔(外務省情報部第2課長)
世界外交花形列伝・・・林正義(東京日日新聞外務省記者)
複雑なる日英関係・・・米田實(朝日新聞顧問法学博士) などなど。。。
「非常時日本はここにスタートを切った!!」とあり、そこに写真が掲載されてます。写真は、⇩
「連盟脱退を仄めかせる松岡全権の告別演説」
「告別を終って廊下に出た松岡・長岡両全権」
「1933年2月23日の歴史的写真。ムッソリーニ・松岡の会見。」
。。。そうです、当時(~1933年)は、1932年満州国建国、1933年国連脱退…と、本当に重大事件が連続発生しており、それで本の題名が「非常時国民全集・外交篇」。
巻頭序文が時の外相ですので、『非常時』に対峙するこの頃の我国外務省の方向性を表明した本と思います。この頃の日本外務省は何故かとてもカッコイイ。。😊😊(今とエライ違いです。。。笑笑)
この本の論文の中から、廣田外相に関して書かれた箇所を抜粋してみます。⇩
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陸奥・小村・廣田
ー日本非常時外交を背負った三傑-
山中峯太郎
明治時代において我らの祖国は、二つの「非常時」を、辛くも切り抜けてきた。日清戦役と、日露戦役と、この二つだった。日本の国運を賭して戦った。建国以来の二大戦役を省みると、そこに、一対の戦時外相として明治の歴史を飾る二人、日清戦役に陸奥外相を、日露戦役に小村外相を、いづれも、日本新興の機運を世界の舞台に開いた、我が外交史の大きな立役者を、今、昭和の非常時にあたって思い出さずにいられない。そして同時に、現在の廣田外相を、あらためて見なおしてみたいと思う。(中略)
非常時の平和外相
(この大臣を信頼しよう。われらが誇り、非常時外相廣田弘毅氏)
…この時から、すでに凡物でなかった廣田弘毅が、今や昭和非常に際して、外相の椅子に着いた。(中略)
…この廣田外相は、近き過去に駐露大使だった。その時、すでに満州の暗雲を察して、モスクワから幣原外相へ、満蒙問題の解決案を建策したと伝えられている。その秘策は、日支の直接衝突を事前に防ぎ、しかも、満蒙に於ける我が特殊権益の実績を上げようとする、平和的政策であったという。対支、対露、対米、いづれも、言はゆる『平和的外交工作』によって、目下の難局を解決しようとする、当然の外交方針が、特に五相会議の申合せとして発表された。『国際関係は世界政和を念とし、外交手段によって我が方針の貫徹を計ること。』
この大綱は、廣田新外相の根本主義と見るべきであろう。非常時に於ける平和外相が、廣田弘毅その人ではなかろうか。」
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このように、大絶賛。。。😊
上⇧の「この時から、すでに凡物でなかった」の「この時」とは、小村寿太郎外相時代に、寺尾亨博士が「今、外務省の内に、あなたの後継者がありますか。」と聞いたところ、小村外相が『廣田弘毅』の名を挙げたそうです。しかし、まだ三等書記官だった廣田氏の名前を知らなかった、要するにそんな頃から既に只者ではないと上部に認識されていたのだ、という意味です。
筆者の山中峯太郎氏は、こう締めくくってます。⇩
「このように傑出している廣田新外相の経歴と巌のごとき性格に、国民は今や多大の期待をかけている。あたかも当年の小村外相に、異常な信頼を投げたように。その小村は、自分の後継者の一人に、廣田を算えた。先見、今や実現したのだ。(中略)
…いよいよ多事なる刻下の対外関係に處して、『我が方針の貫徹』に新局面を打開し、『躍進して非常時を突破』せんことこそ、全国民の異常なる期待なのだ。廣田外相の頑健を、切に祈らざるを得ない。」
次は、町田梓樓氏(東京朝日新聞外報部長)の論文からです。⇩
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幣原・田中・廣田三外交
-外交にはどんな型があるのか- 町田梓樓
…廣田氏が起用さるるに及び、世は挙って適材適所を得たことを祝福した。或る者は廣田氏が軍部に気受けよきが故に此の地位を獲得したと早合点した。(中略)…幣原外交のあまりに惨めな破滅が、如何に日本の国際的立場を困難ならしめたかは前述の如くである。廣田氏が外相に就任するや先ず唱えられたことは外交国防であった。(中略)…外交国防とは外交と国防とを互いに連結せしめ、相協力して国防政策の完全を期するにある。(中略)
…廣田氏の人物を評するは時機尚早い。彼は欧米局長時代より巳に将来を嘱目された有数の外交官であった。唯極めて磊落、よく論じよく語るが頗る捕捉するに苦むものがある。之を以て人或は彼を豪傑の士となすものあるが、彼は極めて細心である。決して放胆たり得ない。然しながら彼は幣原男の如く一人よがりでもない。交友大いに広く、眼識凡ならざるものがある。」
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またまた、大絶賛。。。😯😯😯
ところで、上⇧の「外交国防」とは、
「当時偶々政府の来年度予算作製期が迫っていた為に、そして陸海軍が互いに巨額の要求を予測していた為に、外国国防の声は直ちに軍部対外外務の拮抗を考えさせ、世人もしか信じた」。
しかし、これは全然違う、と、要するに、
「…若し戦争の危機を予想するならば無益に多数の敵国を向うに廻すの愚挙を避けて、国際情勢を日本に有利に転廻させ、限られた国防力には最も有効なる働きあらしめること」、これが即ち「外交国防策ある所以である。」
えーと、、、これ⇧は令和ではなく、、昭和9年。
泥沼の支那事変が始まる約4年前。
えーー、いつか来た道---?💦💦
「…幣原外交のあまりに惨めな破滅」とありますが、著者は、前任の外務大臣幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)の外交を酷評しています。⇩
「幣原男は、以上の如く政治家としての素質を欠いている。幣原男として此の大欠陥を持たしめたものは、その天性からではあるまい。近年我が外務省の外交官養成法が禍をなしたとしか思われない。(中略)在外大使として電文或いは外交文書の字句の末に文人的感興を楽しむことさえ、巳に甚だしく無用の業であるのに、外務大臣としてなお此の性癖を脱し得なかったというに至っては、遂に救うべからざるものがある。」
ええと、くどいようですが、これ⇧は今ではなく、、、昭和9年。
「外交文書の字句に文人的感興を楽しむ性癖」=「政治家としての大欠陥」💦💦 4年後は支那事変・・・。いつか来た道---!💦💦(笑)
次は、東京朝日新聞整理部長鈴木文史郎史の論文から。⇩
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非常時外交を背負う人々
-どんな人々が檜舞台の表裏に活躍しているか-
鈴木文史郎
非公開外交の闘士
非公開外交といういかにも官僚臭味が濃いように響くが、会議外交に対立すべき私的交渉外交の意味である。(中略)
…この方面の人物としては、先ず外相廣田弘毅氏を筆頭に挙げねばならない。外交官の資格を語学、容姿、門閥となせば廣田は先ず落第である。然し廣田は一般の外交官の持っていないものを持っている。自ら外交官の資格を有せずと公言するところに彼の強みがある。省内挙って外相に推薦し得る唯一の人として信望を繋いでいる力をもっている。不可思議なる存在である。外交官出身でありながら通訳をつけて平気で居られる自信が彼の大きさでもある。…外交官にとって語学の堪能なのは鬼に金棒だが、外国語は金棒であって、鬼ではない。
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廣田弘毅氏は、課長の時も欧米局長の時も、公使、大使の時も、「アイデアを部下に命ずるだけ」、それで「部下は廣田のため寝食を忘れて働いた」とあります。溢れる人望。男も惚れる男の中の男。。。これら書評を読む限り皆そんな印象です。
では、最後にそんな『男・廣田外相』😊😊ご本人による『序文』を見てみたいと思います。⇩
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序文
外務大臣 廣田弘毅
凡そ国家盛衰の跡を尋ぬるに国民は興隆の際には常に重大なる試練を受けて居る。日本国民は今や此道程に在る。
日本は満州事変に由って起った国際的波紋の中に立って居たが其波動は国際連盟にも及んだ。連盟は東洋平和の維持に関して不幸にして日本と見解を異にしたが、連盟離脱後に於ける帝国不動の根本方針は炳として詔書に明かである。其根幹は満州国の健全なる発達を援助して日満提携の實を挙げ、以て東洋永遠の平和を確立するに在るが、同時に満州国の接壌国との関係をも考慮し、是等諸国との善隣国交を調整することが緊要であると思う。
更に満州事変以来日米両国民間に若干の誤解を生じたるやに想像せらるる点もあるが、之は満州国の発達と共に自然諒解せらるるに至るであろうと思う。又1935年には海軍軍縮会議が開催せらるる筈であるが、日米両国は太平洋を隔てて直面して居る関係上此際両国関係の徹底的改善は特に焦眉の急と認めて居る。
(中略)
想うに吾外交の基調は協和を眼目とするが、書経には百姓昭明、萬邦協和とあり、我年号昭和は實に之より選定せられたものと拝察する。萬邦協和して世界の平和を促進するは固より我々の時代精神であらねばならぬ。又論語にも君子は和して同せず、小人は同して和せずとあるが、我国民は何事にも付和雷同せず、我守るべき所は固く護り、敢て他国を侵さないと云うところに協和外交の本質が見出さるるであろう。
今や日本は内外幾多の重要なる問題に際会し、上下一致戒心を要する秋であるが、我が偉大なる国民は雄躍を以て此の難関を突破し、益々國運の興隆に寄与し、極東平和の理想の為め健闘せられんことを翹望し又期待して居るのである。
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国民一人一人に自覚と決心を促してます。
もしかして、『非常時』が来ると日本は何故かいつもこんな偉いリーダーが忽然と出て来る有難い國なのかも。弱く小さい国民一人一人を励まし、やる気を促し、試練という困難に立ち向かわせる勇気を与える。
それで失敗、ならそれは私達一人一人によるもの、責任は皆の内あり。
先の大戦も、戦犯・極悪人探しに意味は無く、責任は、先の敗戦の戦犯は、国民一人一人の内に在り、と云えるのか。。。
東京朝日新聞の町田氏は、論文の最後にこんな警鐘を鳴らしてました。⇩
「ただ、今日の我が政界情勢を以てして、果たして長く彼を霞が関の主人たらしめ、彼をして大器たらしむるの機会を与うるか否かは頗る疑問とせねばならない。」
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ところでこの廣田弘毅氏は、何故、東京裁判でA級戦犯、絞首刑になったのか。。。今でもはっきりとは解からないまま。
ベトナム近代抗仏史オタク🤓の私は、1944年の頭山満翁葬儀の葬儀委員長を務めた廣田弘毅氏は、その時未だ対欧米戦争を継続中のベトナム志士達にとって『次の玄洋社はこの人か。。。』と、新旗印に捉えられただろうと想像してます。