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ベトナム志士義人伝シリーズ⑫ ~語学の神童 林徳茂(ラム・ドック・マウ、Lâm Đức Mậu)~

  先の記事「ベトナム志士義人伝シリーズ ~序~」に書きました様に、「越南(ベトナム)義烈史」の初版発刊は1918年の上海。著者の鄧搏鵬(ダン・バン・ドアン)氏多年広州に居ましたが、1938年同地で自殺しました。
 その「越南(ベトナム)義烈史」には、義士、林徳茂(ラム・ドック・マウ、Lâm Đức Mậu)氏のことがこう書かれています。

 「君は壬子の年(1912)に出洋して、ドイツ語を専攻すべく、青島学堂(広州の徳文学校)に入った。甲寅の年(1914)、バンコックにゆき作謀のところ、暹(タイ)人に捕らわれフランス人の手をへて河内(ハノイ)に送られた。フランス政府は敵国ドイツ通謀の罪をつくって、君を死刑にした。
 君の本名、本籍、その歴史は、まだわからない。わかったならば、君の事蹟を書きつらねて、伝えよう。今は以上を誌すだけである。」
            
 『ベトナム義烈史』より

 1905年に潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が出国して以来、クオン・デ候を盟主と仰ぐ維新会=ベトナム光復会『東遊(ドン・ズー)運動』(=出洋愛国運動)がベトナム国内で拡がり始めました。これを早々に潰す為に、フランスは大勢の密偵を放って海外に散らばるベトナム革命運動家らを逮捕し、本国へ送還しました。その為に1918年頃ですと、遠地に居た同志の悲報・最期の様子などは、未だ伝聞のみで詳細が掴めなかったのかと思います。

 独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、上海で逮捕されて本国に送還されたのが1925年で、1940年にフエで亡くなった彼が1928年頃から書き始めた自伝書『自判』に、この林徳茂(ラム・ドック・マウ、Lâm Đức Mậu)氏の詳細を書き遺していました。

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 庚戊年(1910)秋の終わり、辛い日々の中に俄かに嬉しい出来事、500ドルの資金が到着した。半分は梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)君らの御父上、梁玕(ルオン・カン=梁孝廉)氏が里慧(り・けい)氏に預けた分。もう半分は、南昌氏が広南(クアン・ナム)の某氏に託した分だった。
 資金を得たので、計画していたタイ行きを決めた。タイには丁度北部から梁玕(ルオン・カン)氏が送り込んだ青年2人が到着したばかりで、一人は余必達(ズ・タッ・ダット)君、もう一人が林徳茂(ラム・ドック・マウ)君だった。

 徳茂(ドック・マウ)君は、初め広東に渡って周師女史の家で中国語を覚え、その頃の世界情勢の変化もあって広東の『中独中学校』に入学しドイツ語を勉強した。
 フランス語は元から達者、漢語はまだ読めなかったが、広東に半年も滞在するとこれもすっかり覚えてしまった。ドイツ中学入学後は、ドイツ語、漢語の上達は目を瞠る程で、1年後に首席となり学費・寄宿費も免除された。3年後に卒業したが、あまりにも成績が良いので推薦されて初級教員となり、青島のドイツ高等学校へ進学した。

 欧州に大戦が勃発して1年経った頃、徳茂君は支那を離れてタイのバンコックへ渡り、そこに滞在するドイツ人やオーストリア人らと交流を続けた。その半年後、青天の霹靂とも言うべきか、タイは外交方針を転換してドイツに宣戦布告、故にフランスの言を入れたタイ政府に捕えられ、ハノイへ強制送還されてしまった。

 同じ獄舎に、南定(ナム・ディン)のカトリック助教師が居たが、2人とも頗る意気軒昂、消沈する気配など全く見せない。警官が銃をちらつかせ威嚇して、寝返るならばすぐに釈放すると甘言を弄す。
 これに、徳茂君はこう言い放った。
 ”今のまま、ベトナム人のまま死ねるならその方がよっぽどましだ! 誰かの犬になってまで、長生きしようなど思うものか、俺たちが死んだって、ドイツの兵隊がすぐにやって来るぞ!”

 まもなく2人は、白梅(バック・マイ)山の麓で銃殺刑に処された。この2義士の墓は、そこにある。

 神も仏もいないのか。
 まだ徳茂君がタイに在った時、
広東の獄に繋がれていた私へ、慰めに書を贈ってくれたことがある。
 ”天意如扶吾祖国  肯教夫子不生還”

 輝きを放つ瞳、容姿麗しく愛くるしい顔をしていたが、その弁舌は冴えわたり、外交能力の高さは飛び抜けていた。我が祖国が、才ある人士を最も必要とする時に、才能あふれる2人の義士がこんなにも早くに逝く。
 心が痛く、ただ惜しい。

ベトナム志士義人伝シリーズ|何祐子|note

  

 
 

 

 

 

 
 

 
 


 


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