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芸術は投げ捨てた

子どものころはきっとどんな才能があって、どんなことに花が咲くかワクワクしていたんだと思う。なんて言ったって、まだ何もかもが未完成の状態だったわけで、それはイコールなんでもできるしなんにでもなれるってこと。

それでも、私自身は早々に諦めたことがある。
それが"芸術"だった。

不器用ってわけじゃないけれども、まず絵を描くことが凄く苦手だった。
想像・模写問わず、壊滅的だった。
家族の楽しい絵を描いたときに、冗談抜きで「何を書きたかったの・・・?」って言われたのをはっきりと覚えていてそれから私は自分自身で絵を描くことをしなくなった。

物作り自体は楽しくて好きだった。
これは今でも変わらなくて、何かを作ること自体は凄く好き。
ただ、そこに芸術性というものは皆無だったみたい。

図画工作の時、ちゃんと言われた通りやっているけど成績は至って普通だった。小学校の時の図画工作の先生は物事をはっきりというタイプの先生だったこともあって、「頑張ってるけど、上手ではないね」と。

因みに「何を書きたかったの・・・?」って言ったのもこの先生だった。

音楽の授業自体は好きだったけど、音痴だった。
凄くやんわりと言われたけど「個性的な声で個性的な歌い方」と。
これは物心ついていた私にははっきりとわかった「ああ、音痴なんだな」。
それから人前で歌う事が嫌いになった。

カラオケなんかは本当に仲良い友達とじゃないと行かないし、仮に行ったとしても自分は歌わないことがほとんど。

ここまでだと凄くネガティブに読み取れるけれども、私は結構ポジティブに捉えている。
早々に現実を知ったので、自分が描いたり作ったり歌ったりする側にはいかずそれを"鑑賞"することに全部振ってきた。

具体的な知識は無いし、専門的な説明はできない。
直感というか、感覚的なものになるけれども"見る・聞く"ことに注力してきたからか感受性が豊かになったらしい。(人からたまに言われるから)

これは完全に楽しむ側になったけれども、私の人生は凄く豊かになったなぁなんて思っている。

造り手がどんな気持ちでどういう風に描いたり作ったりしたのかなって想像しながら鑑賞することが多かったので、人の気持ちを推し量る力みたいなのが付いたとも思う。

諦めたり捨てることってネガティブに囚われがちだけど、別の道への扉が開いたって考えるとそれはそれでいい事なんだと思う。

自分にできることとできないことって言うのはやっぱりあって。
子どものころは無限の可能性があるように見えて、やっぱり得手不得手はあるわけなんですよね。それをきちんと気づかせて得意な方向に導くって言うのも一つ大事なこと。

今思えば、当時から飼育委員で動物にずっと接していて勝手に動物の気持ちを想像したりしていた。それを先生たちはどうやら見ていたみたいで、たぶん物事を推し量ったり優しくすることが得意って気が付かせてくれたんだとめちゃくちゃポジティブに捉えてる。

不得手を努力することも大切だけど、得意なことを伸ばすって言うのは確固たる自分を作る大事な要素。

私はこれからも人の気持ちを推し量ることができる人間でいられるように、日々精進して行きたいと思います。

がわ

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