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天才と呼ばれたかった

どこかで聞いたことがあるようなタイトルですが、ええそうです。
今日、『さよならたりないふたり』を見返して久しぶりに山里さんの『天才はあきらめた』を読み返したんです。
人間って本当に単純で、今日はその影響をもろに受けています。

子どものころって、なんでか分からないですが1番にこだわったりしちゃうんですよね。私もそうでした。
ただそれは勉強やスポーツではなくてとにかく【何かの1番】になりたかったんだと思います。
子どもながらに、勉強ができるタイプではなかったし運動もずば抜けてできるわけでもないことが分かっていたのかななんて今になって思います。

だからこそ、それ以外の何かで1番になりたかった。
でもそこで具体的に努力をしたのかと言えば特に何もしていない。
というのも、勉強や運動が出来なくても「きっと自分には何かまだ気が付いていないだけで長けてるものがある。そこで天才って呼ばれる」なんて淡い夢を見てたんじゃないかなって思います。子供時代の話なんで正確には覚えてないけど、「自分は何か特別なんだ」って思っていたのは事実です。

「自分は何か特別なんだ」って思っていたのに努力をしませんでした。
既に書いた通り「きっと何かで天才って呼ばれる」なんて思っていたからでしょうね。あと、努力するベクトルが分からなかったからだと思いたい。
何者になりたいのかも分からなかったし、どういう道を歩むのかもまったく分からなかったし、考えた事もなかった。でも、どこかで「天才」っていうワードにはすごく惹かれていた。まあ、ここまで生きてきてありがたいことに「秀才」と言われたことはありますが「天才」と言われたことは一度もないです。

ずっと、「きっと他の人と違うことをやれば才能が爆発する」、「自分に向いていることがまだ分からないだけ」、「そもそも環境が悪い」みたいな事を自分に言い聞かせていたけれども、当然それにも限界がある。張りぼてにすらなっていなかった「天才と呼ばれたい」という甘い考えが折られたのは中学生の時ですね。

私の中学って、部活に入部することが必須だったんです。
それで、みんなやったことないしスタート一緒だからっていう理由でハンドボール部に入ったんですよね。ただ、そこですでに圧倒的な才能ってものを目の当たりにしたわけです。一緒に開始して同じ練習をやっているはずなのに上手い人との差がどんどん開いていく。その時にあー自分って凡人なんだなって思いました。ただそのころでも心のどこかで「でも自分にはほかの才能があっていつか天才って呼ばれるんじゃないか」みたいなことは考えていたり。中二病が出てくる時期でもあるし、今では恥ずかしながらも良い思い出です。その頃の影響が今もあるからか他人と同じことをやるのが凄く嫌だったりします。もう「天才」に関する拘りなんかはありませんけどね。

昔から、お笑い芸人のオードリーと南海キャンディーズがめちゃくちゃ好きです。若林さんの独特な捻くれ具合というか、考え方には尋常じゃないくらい共感していますし、著書も全部読んでます。山里さんは優しいながらも切れ味が鋭くて凄いなって思っていました。そんな中でも特に山里さんのツッコミには本気で憧れてたし、何なら今も憧れてる。あのワードチョイスはおそらく一度は憧れた事がある人って多いんじゃないかなーなんて思います。

初めて『たりないふたり』を見た頃から、小説やテレビ等で「あ、これ使えそう!」っていう言葉があったら記憶にとどめてどこか日常で使えないかどうかいつも探ってます。恥ずかし事書いてる自覚あるけど、これは今でも続いていたりする。これは、山里さんが確かノートに書いてるみたいな話が出た時にやってみようって思ったんですよね。ただノートに書くのは恥ずかしくて(誰かに見られたりするかもしれないし)頑張って記憶しています。

結局のところ「天才」とは呼ばれなかったし、張りぼての「天才」にすらなれなかったけれどもやっぱり誰かに褒められたいって気持ちはあるんです。人間って承認欲求がありますからね。だから、今でも使えそうなワードは自分の中にストックして、飲み会とかで使ってみる。
そして反応が悪かったり、スベったりした場合は家に帰って「あの時違う言い方あったな」ってマジで反省してます。他にどんな言い方があったかなって家の本棚ひっくり返すことがあったります。ノートとかに記録してないからですね。(めっちゃ恥ずかしいこと書いてる)

ただ、何か表に出せない真っ黒な渦巻いた感情がピークに達した時にはノートに書きなぐってます。実家から一人暮らしを始める際にはそのノートは一度処分しましたが今一人暮らしの家には再び復活しています。これは誰にも見せられないですね。

繰り返しになりますけど、「天才」へのこだわりはもうありません。
でも、何か一つでも秀でてるものが欲しくて、たぶん今でもそういう反省をしてるんです。もしかしたらそれはいまだに中二病が治っていないって言われるかもしれないけれども、そうじゃない。自分に武器がないからこそその武器を見つける或いは武器の精度を上げる努力をしているだけでそれを中二病っていう一言で済まそうとする方がよっぽど思考停止してると思っている。まあ、これも中二病って言われるんだけどさ。もう私は私としてそうやって28年間生きてきたからこれからも大きく変わることはないのかなあ。変われたらそれはきっと何か大きな事件が起きた時だと思う。

結局のところ、私は誰かにちゃんと認められたいですよね。ただその認めてもらいたい誰かにはまだ出会えていないから空回りしている気がします。
『さよならたりないふたり』を見て、山里さんと若林さんはお互いがきっとそういう存在なんだろうなって思って羨ましくなった。しかも二人とも結婚しましたしね。衝撃でしかなかった。

おそらく認めてもらいたい誰かに出会えて、認めてもらったとしてもまた新たに秀でてるものが欲しくなって同じようなことを繰り返すだろうなって思います。そんなめんどくさい人間であっても、仲良くしてくれる友達には本当にありがとうと言いたいです(声に出して言うのは恥ずかしいのでここに書きました)

天才ではないし、めんどくさい人間ではあるけれども、これからも何かに向かって努力は継続して行きたい。その何かを見つける作業が人生なんじゃないかなって何となくぼんやりと思ったりしてる。

まあ、結局のところ私はまだまだ"たりない"のでそこを満たしていくかが大事だと思っています。頑張ります!

がわ



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