東電株主総会から見える総会運営の課題  

問題の株主総会は10年以上前に開かれたから相当昔だ。こんな昔の文章載せるのは自分は法学部出身だったといいたいから。

昔書いた文章から。昔書いたので、神田先生の会社法が版が古くなっていたりします。半ば妄言に近い雑記です。

             東電株主総会から見える総会運営の課題  

狙い  福島第一原発事故をうけての2011年6月28日の東電株主総会は、紛糾を極めた。株主総会運営の様々な問題点が浮き彫りになったとは思うが、その中でも、私は特に、株主の経済的利益の主張と、そのような利益に属さない社会的利益の主張との衝突、それに伴う総会の機能不うな中で興味深かったのは、この総会により必ずしも株主も一枚岩でないということであろる。以下具体的に問題点を検討したい。  

                          総会の様子

 役員方の、早いところカタをつけようという議事進行は大方予想通りであったし、満場の総会、建物の外で社員に取り押さえられ支離滅裂なことを叫ぶ活動家の存在も予想通りであった。そのよったことである。  あえて意見を二分すると、国の責任分担をうまく主張しつつ、原子力損害賠償法3条1項但書の「異常に巨大な天災地変」の際の免責も主張し、無用な債務負担を避けるべし、という経済的利益追求の主張があったのに対し、一方で未来の福島の人々に対しどう責任をとるのかという道徳的な主張が見られた。前者は会社がいかに責任を軽くし逃れるかという観点でものを言っていたのに対し、後者は、会社は責任を認めるべしという観点にたっている点で、両者の意見には明確な溝があった。このような意見の対立があったため、またこのように拠って立つ前提が違うことを意識できている人が少なかったため、かようにかの総会は混乱を極めたと推察される。  

法の建前  

法は議決権がどのように行使されることを予定しているのか。これは、大方が当然とするところであろうが、株主の議決権は、自己の経済的利益を最大化するために行使されるものであり、自己の道徳的・宗教的信念を云々するために行使されるものではない。法にそのことは明言されていないが、会社法109条1項はその根拠となりうる。同項は、「株式会社は、株主を、その有する株式の内容及び数に応じて、平等に取り扱わなければならない」(株主平等原則)と規定する。この規定の趣旨については、かつては「正義・衡平の原則」などという抽象的な理屈が用いられていた。しかし現在有力な見解は、株主の投資に関する予測可能性を担保することが趣旨であると説く。すなわち、株式とは、株主たる地位の細分化され均一化された割合的単位なのだから、それに従い、株式数に応じた平等扱いを認めないと、株主と会社との法律関係、株式の譲渡などを合理的に処理できず、安心して株主が出資を行えないというわけである(神田秀樹『会社法(第12版)』66頁)。109条1項がこのような趣旨に立脚するとした場合、想定されるのは、金を出して株を買い、得た株主としての地位を利用して会社の経営に影響を与え、リターンを得るという、怜悧な株主像である。  加えて判例においても議決権行使のありようについて以下のように明言する。 「会社の営利法人たる性質にかんがみれば、・(略)・自益権(筆者注・配当などの経済的権利のこと)たると共益権(筆者注・議決権は共益権に含まれる)たるとを問わず、いずれも直接間接社員自身の経済的利益のために与えられ、その利益のために行使しうべきものと解さなければならない。・(略)・けだし、共益権も、帰するところ、自益権の価値の実現を保障するために認められたものにほかならないのであつて、その権利の性質上権利行使の結果が直接会社および社員の利益に影響を及ぼすためその行使につき一定の制約が存することは看過しがたいにしても、本来それが社員自身の利益のために与えられたものであることは否定することができないからである。」(最判昭和45年7月15日民集24・7・804 下線は筆者)   この判例は、共益権も一種の財産権として相続の対象となるから、相続人は、相続した共益権(本事案では会社解散請求権等)を行使できる、という相続人の救済を意図したものだから、判例の射程には注意しなければならない。とはいえ、この判例が、議決権などの共益権は、配当を1株あたり○円よこせなどの経済的利益の追求のために行使されることを前提としていることは確かであろう。  

                        実際の制度

 しかし、実際の法制度は、株主が経済的利益を追求するべく株主総会に参加するという前提が守られるつくりになっているだろうか。  会社法には、株主が総会に議案を提案できる株主提案権が定められている(304条)が、如上の前提を担保するように、提出できる議案の内容が制限されているという風にはなっていない。条文を読むと分かるが、提出できない議案は、①議案を提出する株主が議決権を行使できない事項について定めた議案(同条かっこ書き)、②法令又は定款に違反している議案(同条但書)、③同内容の議案につき、議決権の十分の一以上の賛成を得られなかった上、その時から三年を経過していない議案(同但書)である。①の例は、株主の有する株式が議決権制限株式の場合であり、②の例は、会社の分配可能額(461条1項)を超えた配当を要求する議案である。この条文は、議案の内容を株主の経済的利益に関わるものに制限するつくりに当然なっていない。  では、東京電力のような取締役会設置会社では、株主総会が決議できる事項が法令又は定款に定めた事項に限られる(295条2項)ので、その制限には係らないか。そのようなこともない。「法令に・・定めた事項」としては、株主総会は定款の変更を決議できる(466条)ので、定款を変更するという形でどのような議案でも提出することができる。そのため、今般の株主総会では、第3号議案として、原発撤退の章を定款に付け加えるという議案が提出され、その中で、地元負担の回避、福島の子供たちの未来への危惧を切々と記すことが出来たのである(http://p.tl/maRD参照。2011年11月9日アクセス)。   

                  弁護士の辣腕  

最初に述べた株主総会の紛糾であるが、どういう形で株主同士の折り合いをつけることができたか。これは、敏腕弁護士紀藤正樹氏の弁舌の巧みさによるところが大きかった。最後に発言した彼は、「3号議案を否定した取締役達は、もし将来何かあったら経営責任を免れない」という言葉を使った。この「経営責任」という用語法は、経済的利益追求者の側からすれば、再び莫大な損害賠償債務を招来しかねない原子炉の運営を続ける役員の任務懈怠責任(423条1項)という意味において理解される一方、原発反対運動家の側からすれば、地元の生活を奪いかねない悪魔の施設の運営を続ける役員の道義的責任という意味において理解されるのであり、両者の理解には相当の径庭がある。それを承知したうえで彼は「経営責任」というあいまいな言葉を用い、両者の齟齬を覆い隠したのだと思われる。 だが所感では、この方法は、たしかに会場の一体感を醸成せしめる効果はあったものの、偶然成功したに過ぎないし、また結局総会における議論の本旨は何であったのかをぼかした点で、総会が十分機能したとはいえないであろう。  

                         まとめ  

株主総会の議案は、株主の経済的利益に関わるものが基本である。たとえ、総会で会社の道義的責任が問題となっても、それは、例えば会社がCSRを果たさなかったために株価の下落等を招いたなどの、経済的利益の追求の中で議論される事柄に過ぎない。法の建前や判例は、その基本姿勢を踏まえたものであることは先述した。  しかし、実際には、法の規定ぶりからみても、株主総会では社会的責任を追及することを至上命題とするような株主が総会に入っていき、議論の本旨をかく乱する事態を招く可能性は常にある。株主総会の運営を意図的にかく乱する総会屋については、立法府・裁判所はその弊害を認識し、様々な対処をとってきた。されど、社会運動家は、株主総会の本来的機能を阻害するとはいえ、自ら信ずるところを株主総会で主張するという真摯さにおいては総会屋と次元を異にし、彼らを排除するということはできようがないし、一概に排除するべきともいえない。  これを行えば済むという万能の解決策はないであろう。株主総会の役割とは何かという社会教育、クラス・アクションなど社会運動を受容できるだけの法制度の構築等できることから一つずつやっていくしかない。今回の株主総会を、原発事故という異常事態が引き起こした一時的な騒擾として片付けるのではなく、企業活動の中で株主総会が適正に機能するにはどうすればよいのか、再考する契機とすべきである。


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