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震災で避難し、新天地で事業再開。大堀相馬焼「いかりや窯」が繋ぐもの

福島県浪江町で約350年間作られてきた国の伝統的工芸品、大堀相馬焼。東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故により、約20軒あった窯元のすべてが町外への避難を余儀なくされました。

山田慎一さんが主人をつとめる大堀相馬焼「いかりや窯」もそのひとつ。浪江の工房に戻ることはできず、事業を営んできた職人も福島を離れ、焼き物の販路も失われるなど、事業存続の危機へと陥ってしまいます。

2013年に福島県白河市に仮説工房を建設し、事業を再開した「いかりや窯」。再起を支えたのは、ECサイトの構築による新規販路の獲得でした。大堀相馬焼「いかりや商店」山田慎一さんのストーリーをお届けします。

山田 慎一

 1970年福島県双葉郡浪江町生まれ、白河市在住 。伝統工芸士。経済産業大臣の指定伝統的工芸品である大堀相馬焼「いかりや商店」13代目の窯元の主人として作陶。 2011年に福島第一原子力発電所の事故に伴い浪江町外に避難し、2013年に白河市大信に作業場を再建した。

江戸時代から続いてきた窯元が、危機的な状況に

ーー大堀相馬焼「いかりや窯」は、いつ頃から焼き物を作っているのでしょうか?

江戸時代に大堀相馬焼が始まったころから続いている窯元です。もともと宿屋を営んでいた際、相馬藩主に「流されることなく、この地に留まれるように」と船の錨(いかり)から屋号をいただいたようです。

素材と釉薬との収縮率の違いから生じるひび割れが広がる「青ひび」、相馬藩の「御神馬」を描いたという「走り駒」、湯が冷めにくく手に持っても熱くない二重構造が、大堀相馬焼独特の技法です。

焼き物の窯元といっても、その全てを自分たちでつくっていたわけではありません。震災前は、職人さんを集めて、様々な場所へ瀬戸物の卸販売を行っていました。左向きの「走り駒」が描かれて「右に出るものはいない」と呼ばれる大堀相馬焼は縁起物。成田山など神社仏閣の小売店を中心に、安定的に販売を続けていました。しかし、2011年3月11日に起きた東日本大震災によって、そんな状況が一変してしまったんです。

避難生活で失われた自信が、つくることで蘇ってきた

ーー「いかりや窯」のあった福島県浪江町は、福島第一原子力発電所の事故により全面的に避難指示が出されましたね。

東京のいとこの家に避難して、2ヶ月ほど東京で暮らしました。避難生活の間、僕はまるでサボって遊んでいるような罪悪感をずっと抱えていました。東京で公共職業安定所にも行きましたが「資格は何ですか?」と問われても、運転免許ぐらいしかない。職人の経験を生かした仕事は見つからず「これまで色々な経験をしてきたのに」と自信を失っていました。

その後、被災者住宅の当選通知が来た頃、妻が働いている会社から辞令があったこともあり、福島県白河市へと引っ越しました。

2011年の夏ごろ、とある新聞社から焼き物の大口の注文が来ました。全部で700個。浪江の工房にはまだ戻れない。そんな状態で制作ができるかわからない。受注するか迷いました。でも「そんなこともできないようじゃ、この先、焼き物を続けていけない」と、自らを鼓舞して、学生時代の同級生を頼り、千葉県にある工房を借りて制作することにしました。

ーー慣れない場所での作業は苦労もあったのではないでしょうか?

大変でしたよ。粘土は幸いにもビニールをかけていて被害を免れたので、これまで使っていた土がありましたが、練りあげる機械は友人の知り合いの方がご好意で貸してくれたもの。操作の塩梅がうまく行かず、土が柔らかくなりすぎてしまいました。けれど普段と違う土を機械に入れること自体が迷惑だとわかっているので、何度も頼めない。

学生時代の恩師にも相談して、最後には手で粘土も練りながら、すべて納品することができました。ロス分も含めて、最終的に約1000個も製作しました。大変でしたが、うれしかったですね。「まだ俺にはやれることがある」と自信に繫がりました。

福島・白河の仮設工房で事業再開。新しい事業のあり方を模索する

ーーその後、仮設工房を白河市に建築したのは、どんなきっかけがあったのでしょうか?

大堀相馬焼共同組合の紹介で、福島県二本松にある工房で皿づくりに従事するようになりました。その頃、被災地の事業者向けに仮説工房の建設費用に使える補助金制度が始まったんです。いつごろ浪江に戻れるかもわからない。同じ大堀相馬焼の窯元である「松永窯」が白河近くの西郷村で再開を決めたこともその後押しになりました。2013年11月にプレハブの仮設工房が完成して、事業を再開しました。

「いかりや商店」からすぐ近くの「南湖公園」は、松平定信が身分の差に関係なく誰でも楽しめる「士民共楽」をうたい築造した憩いの場。山田さんは、ガッチ株式会社とともに、地域の名勝をめぐり、焼き物体験など文化にふれる「士民共楽ツアー」も主催している

ーー再開に当たって、これまでの事業のあり方を変える必要に迫られたとか。

一緒に営んでいた大堀相馬焼の職人の多くが、震災によって避難して、離れてしまったんです。もちろん新しくできた仮設工房まで来てくれた職人もいたんですが、当時はどこの窯元も職人不足で、必要な人数が集まりませんでした。

震災前は、職人が大量に作ってくれた大堀相馬焼を様々な場所に卸すことで利益を得ていた。でも、僕一人では数も作れないし利益はほとんど残らない。最初の頃は日本中の催事で販売していたのですが、全国を回ることもなかなか大変です。自ら焼き物を作り、自社販売を行う道を切り開くことが必要でした。

伝統工芸を知り尽くしたプロデュースで、職人のクリエイティビティが加速する

ーー自社販売を行うためのECサイトはどのようにつくり始めたのでしょうか?

「ウェブサイトを作ると、企業としての信用度が高まる」という話を知人から聞きました。これまで卸販売中心だった「いかりや窯」は、ウェブサイトを持っていなかったんです。

サイトをつくろうにも、自分でつくるノウハウは無い。そんなときに同じ大堀相馬焼「松永窯」の武士君が、ガッチ株式会社として伝統工芸の支援を行っていることを知りました。松永窯のプロデュースなど手腕は確かで、4代目として伝統工芸に通じている彼であれば「いかりや窯」らしいECサイトができる。僕の苦手分野を補ってもらえるかもしれないと思い、相談したんです。

ーー苦手分野とは?

パソコンは得意じゃないので、イチからECサイトを構築しても時間がかかるばかりで、いいものにならない。僕は職人なので、焼き物づくりに集中したいんです。そこを松永君はわかってくれたと思います。苦手な部分を無理して頑張るより、得意なことに力を割いたほうが何倍も効率が良い。

僕の趣味や関心のあるものからイメージを広げて、松永君は「いかりや窯」らしいブランディングを意識したECサイト・パンフレットを作り上げてくれました。ECサイトからの売り上げも好調で、大切にしたいものづくりを多くの人に届けることができるようになりました。

震災で離散してしまった、大堀相馬焼の産地の再結成をしたい

ーー白河市で、その後白河市で本格的な工房を開いた「いかりや窯」は、「大堀相馬焼クラフトアカデミー」など、様々な事業に挑戦されていますね。

大堀相馬焼窯元 いかりや商店

「大堀相馬焼クラフトアカデミー」は、ガッチ株式会社と一緒に立ち上げた大堀相馬焼職人後継者育成のための事業です。大堀相馬焼共同組合の専務理事になったこともあり、自分の窯だけでなく、大堀相馬焼の産地全体のことを考えるようになりました。

大堀相馬焼窯元の職人の平均年齢は70歳を超えています。高齢化は最も大きな課題。どれだけ後継者を育てられるかが大堀相馬焼の未来にかかっているんです。職人がいないと焼き物は作れず、産地はさびれていってしまう。大堀相馬焼は、現在国の伝統的工芸品に指定されていますが、このままでは受け継いできた伝統が消えてしまう危機に瀕しています。

広く門戸を開くように、「大堀相馬焼クラフトアカデミー」では、大堀相馬焼についてのレクチャーをオンラインで配信しています。そこからインターンや地域おこし協力制度を活用して福島に移住して、職人として活躍する若者も出てきました。

ーー山田さんが、これから実現したいことは何ですか?

大堀相馬焼の産地の再結成を考えています。大堀相馬焼の窯元は、東日本大震災後で約半数が事業を畳んでしまいました。僕は、自分の窯元だけが儲かればいいとは思わないんです。焼きものは、産地全体で盛り上げていかなければ、他の産地に負けて、知名度も下がっていく。

学校などの出張教室から始まったという陶芸教室も大人気。基本コースから、本格的な作品作りまで、陶芸の面白さと奥深さを、伝統工芸士である山田さんが教えてくれます。

大堀相馬焼は約350年続いてきました。これから100年先、どうなるかわかりません。震災のように、様々な困難があるかもしれない。子供や孫世代にも大堀相馬焼を受け継いでゆくために、アイデアを考えて実行していきたいと思っています。

text.ガッチ株式会社広報部 荒田詩乃

ガッチ株式会社では、伝統工芸に関わる事業の商品開発やブランディング、海外での事業展開や販路開拓を承ります。お気軽にお問合せ下さい。コーディネーターが丁寧にお応えします。

ガッチ株式会社 https://gatch.co.jp/
代表・松永武士Xアカウント https://x.com/bushi7

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