震災を経て、海外起業から伝統工芸の復興へ。「大堀相馬焼」4代目の挑戦
こんにちは。ガッチ株式会社広報部です。
ガッチ株式会社は、福島県浪江町にある国の伝統工芸品「大堀相馬焼」松永窯四代目である松永 武士が始めた会社です。家業である大堀相馬焼の企画・販売から始まり、現在では日本各地にある伝統工芸品の魅力を世界に発信する事業を行っています。
国の伝統工芸品「大堀相馬焼」の窯元の跡継ぎとして生まれた松永。「福島を出たい」と思い、東京の大学に進学し学生起業します。さらなるステップアップを目指し、海外で事業を立ち上げる準備をしていたその時、東日本大震災が起きました。
葛藤の末に海外に渡り、中国、カンボジアで事業を立ち上げる経験のなかで感じたこと、東日本大震災で被災した地元への思いが、ガッチ株式会社の創業に繫がっています。そんな松永の思いを、今回は前後編でお届けします。
窯元の仕事は忙しいから、継ぎたくないと思っていた
ーー福島県浪江町で育った松永さん。どんな子どもの頃を過ごしたのでしょう?
僕の育った福島県浪江町は自然が豊かな場所だったので、川遊びや山登りなど、野生のなかでのびのびと遊びました。コンビニも僕が中学校の時に初めてできたような場所。周りは山に囲まれていました。
国の伝統的工芸品「大堀相馬焼」の窯元の家に生まれたけれど、子どもの頃は窯元の仕事にはほとんど関わりませんでした。昆虫や恐竜が好きだったので、幼いときに粘土で何度か作ったくらいです。
学校から帰ってくると友達と遊んでいたし、中学になれば部活で家にいなかった。たまに全国各地で開催される陶器市や陶器フェアに出展するときに、出張に一緒について行きました。
ーーいつか窯元を継ごうという気持ちはあったんですか?
両親がとにかく忙しそうだったので、正直なところ同じ仕事をしたくないと思っていたんです。お客さんがあっての商売なので、お店を開けなければならないし、イベントで土日はほとんど休めない。休日に家族旅行にでかける友達の姿を見て、子供ながらに辛かった。将来は、公務員やサラリーマンなど、土日に休みがとれる仕事に就きたいと思っていました。
そんな気持ちもあり、進学したのは東京の大学。学びたいものがあって大学を選んだというより「福島を出よう」という気持ちが強かった。今でこそ福島の自然はいいなと感じるけれど、若い頃は刺激が欲しかったんですよね。
「自分の道を行こう」と大学2年生で起業
ーー大学でどんなことを学んだのでしょうか?
インターネットや経営に関心を持ち、アントレプレナーシップと呼ばれる企業家精神について勉強していました。その頃は、学生団体やNPO法人を立ち上げる機運が高まり始めた時代でもありました。インターン先の塾の社長との出会いも大きかった。社長は学生企業をした人で、その繫がりで色んな人に会い、「いつか僕も起業をしたい」と憧れが大きくなりました。
東京で会う学生達の学力や知能の高さに驚き、焦ったこともあります。このまま就職活動をして企業に入ることができたとしても、その先ずっと出世競争で戦い続けなくてはいけない。ほかの人と同じやり方では自分の色が出せずに負けてしまう。僕の道を行こうと思い、大学2年生の時に起業しました。
ーーどんな事業を始めたのでしょうか?
インターン先の塾の事業のひとつとして、お茶の水に1軒しかなかった塾を全国に広めるため、当時主流だったガラケーで学習管理をする事業を始めました。北海道から沖縄まで多くの生徒さんが受講してくれて、学生にしては大きな利益が出たんです。「もしかして、経営のセンスがあるかも?」ってその時思いました。
事業が大きくなり、忙しい日々を過ごすなかで、別の欲が出てきました。独立して自分で事業を立ち上げたいと思ったんです。塾の事業は自分の受験経験の切り売りでこのままでは経営の力がつかないのではないか、という問題意識もありました。今考えると、こじらせたな…と思うんですけど。
迷っていた時に、海外で病院事業を立ち上げようとしている人に偶然出会いました。その人に「中国に行ってみないか」と誘われたんです。僕にとって初めての海外だったのですが、自分の殻を割ろうと思い、挑戦することにしました。
東日本大震災の3日後に、中国の大連へと飛び立った
ーー中国で事業をはじめることになったのはいつ頃ですか?
ちょうど大学3年生の終わり頃です。塾の事業を人に引継ぎ、本格的な視察を終えて、4年生からの休学手続きを済ませて、出発の準備をしていました。飛行機出発日の3日前が2011年3月11日。東日本大震災が起きました。僕は、その時東京にいて、テレビで福島が大変なことになっている状況を見ました。慌てて安否確認をして、幸いなことに、その日のうちに両親の無事を確認したんです。
このまま出発するか、とても迷いました。でも、あまりにも起きた出来事が大きくて、その時は、福島だけじゃなく日本全体がどうなるかわからないと思ったんです。仮に僕がここで福島に戻ったとしても、何もできないんじゃないか。不安と葛藤のなかで、目の前のことをやろうと決心して、中国に渡りました。
ーー後ろ髪を引かれる思いで渡った中国で、どんなビジネスを始めたのですか?
大連で日本人観光客や駐在員向けに病院を紹介するサービスを始めました。当時、TOYOTAやSUZUKIの工場、softbank、livedoorのコールセンターがあり、多くの日本人駐在員がいました。彼ら向けに、保険で医療サービスが受けられる病院を紹介する営業をしていました。
ーー海外での事業は大変だったのでは?
病院は命を預かる場なので、信用を得るために学生ではないふりをしたり、ブラックな状況で働いたり、突然スタッフが来なくなったり、日本では起こらない出来事が沢山起きました。でも、なんとか数ヶ月で軌道に乗り、大連は人に任せて、同じ事業を立ち上げるために香港に渡りました。
でも香港では、物価が高く医者のお給料や土地代が高くて利益があげられない。次は、もっと物価の低い、カンボジアのアンコールワット遺跡のあるシェムリアップで事業を始めました。でも、シェムリアップには日本企業がいなくて、事業が成り立たなかった。簡単には引き下がらないぞと、観光客向けのマッサージスパを立ち上げることにしました。
けれど、スパの立ち上げの最中に僕は日本に帰ることになったんです。きっかけは、日本にいる父が病気になってしまったこと。慌てて事業を引き継ぎ、日本に戻りました。3.11の直後に日本を出発してから、1年後のことでした。
大堀相馬焼を復興し、その価値を海外へと届けたい
ーー日本に戻り、どんな事を感じたんでしょうか?
大学に復学して、両親に会い、話を聞きました。浪江町は原発事故の影響で、帰宅困難地域に指定されて、このまま一生街に戻れないんじゃないかという状況でした。住民が全国や海外に散らばり、両親も栃木県の那須塩原に避難していました。相馬焼の窯元もバラバラに避難する状況を目の当たりにするなかで「故郷ってなんだろう」と思いました。
そんな時に、避難していた親戚の人が「焼き物を見ると街を思い出す」という話をしてくれたんです。その言葉に胸を打たれたのを覚えています。離れていても、もののアイデンティティーが故郷を形作ることがあるのかもしれないと思いました。
日本は災害が多い国なので、定期的に起こる震災で文化が壊されてしまう。だからこそ、子や孫に伝統工芸を引き継いでいくことが大事なのだとわかったんです。
ーーなるほど。
1年間海外で事業をするなかで、日本人としてのアイデンティティーを実感したことも大きなことでした。大連でも、香港でも、シェムリアップでも、日本の未来を憂いて、日本のために頑張っている人に沢山出会いました。僕も日本を盛り上げることに携わりたい。でも、福島の状況に直面し、その前に地元をなんとかしないといけないと思った。
日本の価値として海外に誇れるものはなんだろう?そう考えて、大堀相馬焼の価値に改めて気づいたんです。悩んだ末に、伝統工芸である大堀相馬焼を復興することと、海外へ展開していく事業を行う会社を立ち上げました。日本の伝統的価値を捉えなおし、海外からの日本への関心やニーズと合致させる、そんな意味を込めて、GATCHと名付けたんです。
本日はここまで。後半では、大堀相馬焼の松永窯の再生からお話がはじまります。どうぞお楽しみに。
text.ガッチ広報部 荒田詩乃