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援助じゃアフリカは発展しない

11月はこちらを熟読。
Dead Aid 邦題「援助じゃアフリカは発展しない」
ダンビサ・モヨ
私は成功の秘訣よりも失敗事例を多く知ることで影響の先の方々へ活動を通して明らかにこれはおかしいと思われる様な活動を避けたいと考えて勉強している。その一環として拝読。
タイトルは過激だが、結論として各種条件付きだが解決策として下記を出している。


貿易・外国直接投資・資本市場・海外送金・マイクロファイナンス・貯蓄
これらが機能する大前提として「ガバナンスの妥当性」は外せない。
規則が複雑すぎて誰もしたがっていなくて実質無秩序になっていたり、穴だらけでその実役人が不当に利益を貪るというようなことが起きていたりしては到底機能しない。


低収入・低成長(切り方によっては̠マイナス成長)・不安定な経済状況において未来を考えることは絶望に近いものがある。
よく援助・支援の実行者は「ここにある笑顔を守りたい」という。
それは恐らくたまにくるガイジンに向けて作られたものであるか、純粋にガイジンに対する好奇心によるものであって、それを守りたいならいずれかの状況を継続させて欲しいものだ。

果たして外の情報が比較的手に入りやすい現代において、“いまのままでいい”と想って幸せに生きていると本気で考えているのだろうか。
だとしたら恐らく想像力不足か楽天主義が過ぎるように想われる。
寒い冬も裸足で薄手のTシャツで過ごしている。

医者や先生になりたいと思っても勉強の機会などひとつもない。
病にかかっても見てもらうために借金する。それも月利15%で。
何かの支援で縫えるようになってもモノの仕入れや売り方など微塵も介さず事業を起こして失敗する。

その様な状況を繰り返すなかで毎日を、生きるために仕事があればして、それ以外はただその日を座って過ごす。
男は偽造酒を嗜んで酔っ払ってあらゆる暴力をする。たまに酒創りに失敗して亡くなる。

この様な光景が普通に広がる彼ら彼女らの生活の中でガイジンがみる笑顔は守るべきものなのだろうか。
援助は偏り、やたらと豪華な建物がある村の横では何ら援助が入らない村が当たり前にある。

現場活動家はお互いに嫉妬したり見栄をはったりして本気でどうにかしようとしない。
もちろんこれらは事象を私が一側面から書いただけに過ぎず、これからどうなるかなど私にも分からないし、正解なんてものがあれば教えてほしいものだ。

だが、幸い現代はネットが使える。
誰もスマホを持っていない村でも4Gが入ることもよくある。
もちろんネットとスマホだけではどうにもならない。
そもそも文字が読めない、打てなければ使えない。
音声で操作ができるようにするにせよ、それを指導しサポートする人が必要だ。

公教育と最低限の健康な状態でいられる環境は政府の手が回らないのであれば私たちが無償で提供してもよいのではないだろうか。
また、公共財の提供も条件付きかつガバナンスの条件を付けて手を出していいのではないだろうか。
そんなことを考えながら拝読。

インドの田舎の状況を見た方からたまに“昔の日本みたい”という感想を耳にする。
そこに“この村もしばらくしたらもう少し善い生活になる”という前提があるのだとしたらそれは少し楽観的な様な気がする。
社会主義体制でない場合は市場にいずれかの形で参入する目途が立つまでは楽観視などできない。

更に文化的背景による差別がある以上、決して“時間が経てばどうにかなる”などと想えないし、それを今目の前で見ていて感じることなど到底できない。
しっかりと学びながら、決して論理的ではない現場のロジック・力学を理解するよう努めつつ、向き合いながら活動し続ける。


私にはそれしかない。

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