遠藤周作『沈黙』

『沈黙』を読んだ。
図書館で借りて、有名作品を今更という感じがしながら、あまり乗り気じゃなかった。
キリスト教の話ということを知っていたからだ。
歴史の授業でキリスト教について勉強したとき、何はともあれ怖かった。
深く理解するとか教義はわからないし勉強していないけど、「信じるものは救われる」と言うのに殉教者がいると教わったからだ。
信じたのにつらい思いをして死ぬんじゃ救われてないんじゃないのか、それで「信じるものは救われる」って言われても怖くて信じられない、と思ったまま大人になった。
そのときの授業で遠藤周作の『沈黙』についてさらっと先生が話したことを覚えていた。
「司祭は牢屋に閉じ込められたり、逆さ吊りにされて苦しめられる。
夜になると同じように逆さ吊りにされている信者のうめき声が聞こえる。
司祭も信者もキリスト教や神様を信じているのに、誰も助けてくれない。
それに絶望した司祭が棄教する。」というように話していたと記憶していた。
実際に読んでみると登場人物の辿る道が司祭の師と混ざっているし、信者も正確には棄教しているが、司祭が「彼らはもう棄教しているが、司祭が棄教する、と言うまで逆さ吊りにしている」と言われ、神への祈りが届かず、神はずっと沈黙していることを嘆き悲しんでいた。
最終的には自分が棄教することで救われる命があるならば、自分の信仰よりも人を救う道を選ぶ、という話だと受け取った。

『沈黙』はもっと早く読んでおけばよかったと後悔した。
神を信仰している人には怒られそうだけれど、あの歴史の授業から「信じるものを救ってくれる神様なら信仰者を殉教させないのではないか」と思っていたからだ。
この話に出てくる神様は「信じるものではなくても、祈らない相手に対しても何もできない、けれど一緒に悲しんでいてくれる」そういうことだと。

「信じるものしか救わない セコい神様拝むよりは」とB'zの歌である。
わかる!好き!と思っているし、今も好きだけども神様に対する理解もいろいろあっていいのかなと思えた。

お正月は神社に行くし、お盆はお寺だし、私は宗教テキトーだなと思っているし、家族も友達もそうだ。
神社で「神様にお願いしとこう!」と言えば誰かが「いつも信仰していないのにこういうときだけ神頼み!私もだけどね!」という会話が多い。
そういうときはいつも「神様は優しいから許してくれるはず!」と言い返していた。
宗教にもよるし、神様はいっぱいいる人とそうでない人もいる。
でも今も昔も神様は優しくしてくれたらいいと思うし、『沈黙』も怖くて悲しかったけど読んでよかったと思った。

ここまで読んでくれた方がいたら、ありがとうございます。

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