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「考える」という事について

ここ数ヶ月の間、noteで記事を投稿するたびに枕詞のように付けている「今月もあっという間に過ぎた」を、今も体感しながらこの記事を書いている。その中で、最近つとに感じた事について、ちょっとばかり書いてみようと思う。

突然だが、ある哲学者の言葉を引用したい。「人間は考える葦である」という言葉を遺したのは、フランスの哲学者・科学者であるパスカルである。人間は弱い存在だが、考える力を持つ点が最大の強みである事を言い表した。
パスカルのこの言葉が公になってから数百年経ったが、今の私たちは、彼の言う最大の強みを捨てている(あるいは放棄している)のではないだろうか、とつとに感じる。
例えば、私が今勤める部署では、社内掲示を出す事がしばしばあるが、よく読まず、また考えたり調べたりせずに質問してくる人がちょいちょいいる直接担当に聞いた方が早い場合もあるけれど、もうちょい読んで(調べて)!と心の声が喉元まで出かかるのを抑えながら対応するのは、そこそこストレスになる(なぜか忙しい時に連絡が来るパターンが多く、その都度イラッとする…)。
でも、程度の差はあれ、こうした人たちはあちこちで見られるように思う。先日の兵庫県知事選挙の結果を知った時、アメリカ大統領選挙と同じ事が日本でも起きた事に衝撃を受けた。SNSの情報作戦によって、斎藤氏のパワハラ行為とそれを告発した職員が死に追いやられた事を信じず、彼を支持する人たちが一定数いたとは…
彼に投票した人たちは、斎藤氏の失職の原因となった彼の一連の行動について、どの程度調べたのだろうか?マスコミへの不信からSNSの情報に当たった人たちもいたとは思うが、大半は斎藤氏陣営が発信した情報(彼にとって都合の良い話)に触れて、それを鵜呑みにしていたのではないだろうか?民主主義の根幹を揺るがす出来事の一つであり、また、ともすれば扇動政治になりうる選挙制度の欠点を改めて浮き彫りにした問題だと思う。

私自身、大層な考えがある人間ではなく、思慮不足な時も結構あるし、時に勘違いや思い違いもする。だからこそ、(その時の状況にもよるが)一つの視点だけで物事を判断せず、異なる角度から調べたり聞いたりして考えるようにしている。そうなったのは、自分の育った環境や失敗談によるところが大きいが、これまで触れた文学・映像作品の影響もあると感じている。その一つが、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『ハンナ・アーレント』(2012年制作)である。
ドイツ出身のユダヤ系哲学者であるハンナ・アーレントが、1963年にエルサレムで行われたアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、「悪の凡庸」という概念を打ち出した事と、それによる一連の反響を取り上げた作品だが、当時学生だった私は、アーレントの冷静な分析と言葉に心奪われた。
アイヒマンは、戦時中ナチス占領下にあった地域にいたユダヤ人たちを、ナチスの強制収容所に送るかどうかを決める(もっと言えば彼らの生殺与奪を握る)立場にあり、上層部からの命令で多くのユダヤ人たちを収容所に送る文書に署名し続けた。アーレント自身も、収容所に送られながら戦後生き延びた一人だったのだが、それにもかかわらず、彼女はアイヒマンを「ただの凡庸な役人」であり、どこにでもいる(そして誰でもそうなり得る)存在だと指摘した。アーレントのその分析を非難した人たちは少なくなかったが、彼女は非難の嵐に負けず、教鞭を取っていた大学で聴衆を前に「考える事で人間は強くなれる」と説いた(映画の終盤で出るこの場面は圧巻・必見です)。

これは私の勝手な推測だが、アーレントは自らを収容所送りにした人間を目の前にした時、当時経験した悲しみや憎しみ、痛みを思い出し、激情に駆られそうになる場面もあったのではないかと思う。けれども彼女はそうせず、逆にアイヒマンの言動を冷静に見つめて考え、彼の行為は思考停止によるものである事を見事に指摘した(そして、彼女を批判した人々もまた思考停止状態にある事を、図らずも炙り出した訳だが…)。
考える事とは本来こういうものなのか、と映画を見た後、雷に打たれたような衝撃と、一つの大きな学びを得た充足感が入り混じった状態で映画館を後にしたのを、今でもよく覚えている。

話が大分脱線したが、私たちが今一番必要とする事の一つに、「(適切に)考える事」がやはり挙げられるのではないだろうか。この事は今の時代においてこそ重みを持つものであり、人間として生まれた以上死ぬまで続く(そして続けるべき)ものでありながら蔑ろにされ、放棄されつつある事のように思える。
その原因には色々考えられるが、私の所感では、ネットやSNSで手軽に様々な情報が手に入るようになった事で、かえって他人と違う事を避けるようになった事だと思う。ネットという匿名性の高い空間において、他との違いがたやすく批判(場合によっては誹謗中傷も)され、結果的に誰かを傷つけ、死に追いやるところまで行くケースも増えた。
それだけが原因ではないが、簡単に手に入る情報に飛びつき、そこに疑問を抱かず(あるいは疑問に思ったり異を唱える事で誰かの批判に晒されるのを恐れて)、大多数と意見を合わせるべく「答え合わせ」を求めるようになり、最終的に思考停止に陥るパターンが多いように感じる。
でも、それで良いのだろうか?そこにある種の居心地の良さはあったとしても、あまりに窮屈で自由がない状態ではないかと思う。少なくとも、ひねくれ者の私には、自分なりに考えたり調べたりして理解・納得出来ずに、誰かと同じ意見を言わされるのは我慢しがたく、例え一人になっても、違うものは違うと言ってしまうだろう。

さて、皆さんは「考える」事についてどう思いますか?

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