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思考がなんとなくマイナスに傾くときに
私にはいつもふと思い出す一節があります。
太宰治「晩年」の一節なんですが、「晩年」を読んだわけではなく、寺山修司「ポケットに名言を」で出会いました。
安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしてるときは生のよろこびを書きつづる。
なんとなく「そうだな」って思ってて。
絶望を叫びたいときって、実は案外余裕があったり絶望してる自分に酔いたいだけだったりするような気がします。
本当に絶望してるときって絶望を表に出す気が湧かないし、絶望してるとか苦しいとか叫べるって今が満ち足りてる証拠なのでは?
この一節に出会ってから、少しだけ、生きやすくなった気がします。
出会うまでは「私の人生はこんなに駄目でどうしようもなくて救えないんだよ」って言いながら本当に絶望してるつもりだったんですが、この一節に出会って人生を振り返ってみると「確かに絶望してたけど、それって過去で今は別にそうでもないんじゃないか?」って気付いて、めちゃくちゃ恥ずかしくなりました。
結局私は「絶望してる私」に自分でも引くほど酔ってただけだったんですよね~。
気付いてからは、気持ちがマイナスに傾いたり絶望してるって言いそうになったときに「また酔ってるで、わたし」って自制できるし、本当には絶望してないってもう知ってるからマイナス思考がそれ以上は進まなくなりました。
私にとっては「知ってる」ってそれだけでめちゃくちゃ安心材料になるから、太宰治「晩年」の一節が教えてくれた「絶望を叫びたいときの仕組み」にはめちゃくちゃ助けられています。
逆に「この世界の全てに感謝!」とかしだすと、危ないんだろうな。
人生の終わり際って何故かすごい感謝したがるって聞いたりもするから、自分が嫌だと思うことにすら感謝し始めたら多分限界なんだと思います。
今のところ嫌だと思うことは当然あるし、それについてとやかく言うつもりはないけど無関心って感じなので、私の生活はまだひしがれてない模様。
無関心って愛の反対じゃないですか。
つまり1番冷たいと思うので、嫌なことにはこれからも基本的に無関心を貫いていきたいです。
もし私が嫌だと思うことに関心を持ち出して、「それすら私の人生には必要なんだ」とか言い出したら全力ビンタで目を覚まさせてください。
辛かったことを大袈裟に言いすぎるし、人の辛かった話なんて普通に聞きたくないってわかってるのに話しちゃう私の無駄すぎる承認欲求。
過去の辛さをあたかも今辛いみたいに話さないよう、ちゃんと自分に釘を刺し続けようと思います。
毎日はなまる。
【昨日やったこと】
読書(ハリーポッターと秘密の部屋)
フロントエンド開発の勉強
英語学習アプリで英語の勉強
物理をまとめたノートの復習(3周目)
noteを書く
写真を撮る(小学校に来ていた移動図書館にちょっとだけ行ってきたので、そこでパシャリ。本より落ち葉を拾って遊ぶこどもさん撮りました!)