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墨壺。

去年の春、僕は四ツ谷のtattooスタジオの施術台に横たわっていた。窓の隙間からは時折、生暖かい風が心地よく入り込んできている。墨を彫られている痛みにも慣れ始めた頃、うたた寝をしてしまう。

あれは僕が20代半ばの頃に観た、感覚が限りなく現実に近い夢。舞台は北陸の片田舎にある実家の目の前に続く長い道路。そこに僕がひとり立っている。

稲穂の香りと春の生暖かい風が身体をすり抜けてゆく。それはそれは、とても安心する匂い。

目の前には同級生が3人、自分に背中を向けて歩き、遠く離れてゆくのが観える。

当時、僕は特に就きたい仕事もなく、ただフリーターをしていた。徐々に同級生と、社会的に乖離していく現実に負い目を感じて、塞ぎ込んでいた時期でもある。

夢の中で空を見上げると、晴れ空なのに何故か無数の星が散らばっていた。その星たちが徐々に集まり、金色の龍となり優雅に空を泳いでいる。

それをただ眺めていると、龍は自分に向かって泳ぎ始め、息遣いを感じる程の距離まで迫り、目を合わせた。

「お前はこのままでいいのか。」

龍が直接そう言ったわけではないが、
そんな一言が全身に響き渡り、唖然としていると、
龍はまた空へ泳ぎ登り消えていった。

そんな夢を今でも鮮明に覚えている。

うたた寝から目が覚め、施術台の目の前を眺めているとそこには金の龍の絵が飾られていた。
そして窓から、あの日に観た夢と同じような風が吹いている。

施術を終え、玄関の扉をあけると
押し戻されるような強烈な風が音を立てて吹き込んできた。

後ろで彫師さんが「なんだか龍でも出そうな天気ですね。帰り道、龍には気を付けてください。」と笑っていた。なんて粋な人なんだ。

その時に、この人に龍を彫ってももらおう。
と、そう心に決めた。



あのまま田舎に残っていたら今頃どうなっていただろうか。今では東京で、いつ破綻するかもわからない日々ではあるが、有難い事に自分のやりたい事で生活が出来ている。少しはようやくあの時の龍に顔向けができる自分になれたとも思う。

なので今年の秋にあの龍を古き友として腕に彫った。これからもあの龍に恥じない生き方を出来ればと思う。



時に何故、刺青を入れるのか。
僕にとっては「終活」が理由として最も割合を占めている。

僕には密かに夢があり、
それは「老体になった刺青だらけの身体を写真に残す。」だ。

何をやっても平均以下で、
無個性な劣等生だった田舎者の自分に、
生きがいを感じさせてくれたのがものの一つが「写真」だった。

今後どう転ぶかはわからないが、
こんな生活だからきっと、
とんでもない劣化の仕方をするであろう。笑

ホームレスになってる可能性も0ではない。


老体の写真を残してくれる人物が肉親であればベストだが、現時点では自分に家族が出来ると言うのは少し現実離れな話だ。いつかの日か、心を通わせる写真家を目指す若者でもいい。

写真を生業に生きたおじさんの肖像としてでも、
よく知らない変な刺青のおじいちゃんでもいい。

これからの世代の写真人たちの被写体となり、誰かの作品として世に残る事が、自分に出来る最大限の写真への恩返しだとも思っている。

偉そうなこと言って、ただの老人の承認欲求じゃねえか!と言われたらそれまでなんだけど。笑

思春期に、無個性であることに苦しみ、何者でもなかったあの少年が。
自身の身体を持って人生を語り、そこでようやく何者かになれるのではと感じる。

死に対する恐怖心は強い。看取ってくれる人がいるとも限らない。
自分の人生の執着地点に、そんな目標があれば少しは老いることも、死ぬことも、少しは楽しみとして待ち望む事ができる。


老後があるかどうかはわからないが、
今からとても楽しみです。

35歳、近影。

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